随筆 佃、月島の歴史散歩(IHI、石井鐵工物語)

東京都中央区月島、勝どきの歴史は意外に新しい。この地区は佃と隣あわせだからまず佃からその由来を話し始めよう。
佃は隅田川河口に浮かぶ小さな島で、もともと住民はいなかった。
徳川家康が江戸に幕府を開き、江戸が整備されて後の正保元年(1644年)佃島は攝津国(いま大阪)西成郡佃村と大和田村の漁民が幕府から拝領し、住み着いたものである。

攝津住吉社をこの島に分社し漁民の村をつくったのであった。いまも佃1丁目1番地にある住吉神社がそれである。佃煮は小魚を煮た保存食だが、ここが発祥の地である。
佃1丁目は住吉水門から水路が佃公園までぐるりと取り囲んでいるが、それが元来、佃が島であった名残だ。
佃2丁目は、昔は石川島と言った。石川島は江戸時代には隅田川河口の三角州で「みこくしま」と呼ばれていたが、寛永3年に石川八左衛門という人が拝領し代々子孫が居住し、石川島と呼ばれるようになった。明治になって築地の徳川幕府海軍所跡地に帝国海軍省がおかれ、海軍兵学校などの海軍施設がつくられた。そのため隣接する石川島は海軍の艦船を造る場所となった。そういう経緯で石川島播磨重工はここから生まれたのである。

佃3丁目の歴史は新しい。明治時代に入ってから船舶の大型化で隅田川の通行に難渋するようになり、大規模な隅田川浚渫が行われ、その土砂を積み上げて造成されたのが佃3丁目(明治29年)月島、勝どき地区(明治25年)である。因みに晴海は昭和12年に造成され、幻の東京オリンピックの予定地であった。銀座、築地から勝どき、晴海に通じる晴海通りは隅田川を勝鬨橋でまたぐが、この勝鬨橋こそが戦前の幻の東京オリンピックのためにつくられた記念の橋である。このオリンピックは戦争のために中止となった。

月島の地名は築島から来ているが、江戸時代には月島のあたりは佃島の干潟として、潮干狩りや月見の名所として江戸の町民に親しまれていた由来から、月島と名付けたものであろう。
勝どきも、晴海も元は月島の住居表示だったが、戦後の住居表示改正で勝どき、晴海という名称に変った。勝どきにある小学校を月島第二小学校、児童公園を月島第二児童公園と呼び、晴海にある運動場を月島運動場、公園を新月島公園と呼ぶのはそのためである。

佃2丁目、つまり石川島の工場は昭和50年代に高層住宅地帯と生まれ変わり、石川島播磨重工の本拠地は、春海運河をへだてた江東区豊洲に移った。いまウォーターフロントとして株式市場で騒がれているのが、この豊洲地区である。青島知事がぶっつぶした東京博覧会会場として開発されたお台場一帯と、豊洲は隣接しており、いまではこのあたりは未来都市の様相を呈している。西へ西へと発展していった東京が、また東へと回帰しつつある。

佃に行くには昭和39年8月までは、中央区湊3丁目から渡し船に乗っていた。勝鬨橋まで回るのが遠回りだったからだ。佃大橋が出来たのは、このように最近のことなのである。
佃、月島は、かつては東京の僻地であったが、今や地下鉄有楽町線が東西に走り、地下鉄大江戸線が南北に走り月島駅で交差するという一等地に生まれ変わった。
晴海、豊洲、お台場一帯の発展で、東京の中心がまた東に回帰している現在の状況を頭に入れて東京の地図を見ると、石井鐵工所の工場跡地のある月島あたりが東京の中心地に見えてきて仕方ないのである。            
                       
                            随筆 佃、月島の歴史散歩  完

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