始皇帝が大金を渡して徐福を日本に派遣したと言う伝説がある

2千2百年前に徐福は東海の島を目指して山東半島から船出した。

秦の始皇帝は己の死を恐れ、不老不死の薬草があると言われた東海の島、中国名で蓬莱島(日本)に徐福を派遣した。
始皇帝は徐福に大量の金銀を与え、3千人の童男童女と技術者たちを船に乗せて出港させた。
徐福は日本で不老不死の薬草を見つけることが出来なかった。
秦に帰国すると詐欺師として処刑されるので、帰って来なかった。
そのまま東海の島の平野部にとどまり、その地の王となった。
そういう内容が司馬遷の史記に書かれている。

日本の奈良に都が出来たのが奈良時代、唐の時代で、奈良唐710年だ。
徐福が秦の始皇帝の命を受けて東海の島に、3千人の子供と技術者を積んだ船で出航したのは
奈良時代よりさらに900年も前の太古のことである。
歴史のロマンだわな~~

秦の始皇帝が作った富士山を模した高さ76メータの陵墓を僕は拝みに行った経験があります。王陵を守るよう兵馬俑が配置され近年発掘された。この兵馬俑も僕は拝みに行ったことがありんす。

兵馬俑配置の規模は2ha程の広さ。3つの俑坑には戦車が100余台、陶馬が600体、武士俑は成人男性の等身大で約8千体あり、みな戦闘態勢で東を向いていたわな。
8千人の兵士一人一人の顔と手振りが全部違っていたからビックリしたぜよ。

2200年前の日本人には万里の長城も兵馬俑も作る技術もなかった。
ボロ布を纏い、栗の実を拾ったり川の魚を取って掘っ建て小屋に住んでいた。
ところが徐福の日本上陸以降、日本は秦の技術で飛躍的に発展した。
平安時代には、中国の宋王朝(千年前)より日本国の方が技術が進んでいた。
宋人は日本の刀や武具、生活用の製品、仏閣建築が中国より精巧で立派であることに驚いた!!

それで「日本は秦の始皇帝の命で徐福が技術者を連れて行ったために技術が飛躍的に発展し、中国を抜いてしまった」と嘆息したと言う。

こういう昔話、雑学も覚えて隠岐魔性!!

秦の徐福が上陸した場所は2説あって、島根県と和歌山県です。
今では日本のチベットと言われ新幹線も通わぬ究極の僻地である島根県がなぜ古代に日本の中心地となり日本神話の発祥地になっていたかと言えば秦帝国の文化を伝えた徐福が出雲にいたので、出雲王朝に於いて高度な文化が花開いたからと言われています。
和歌山県の熊野が日本の聖地と言われるのは徐福定住伝説のせいです。 

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