休日読物 死んで逝った無名の友人たちの物語 第六話 小中学校で成績1位だった男

F君は田舎の小学校、中学校で成績が一番良かった。実力1位だった。

中学校時代に出雲周辺の多くの中学校が参加し、統一模擬試験をやっていた。
「東大テスト」「中国ブロックテスト」と言う名前だった。
出雲地区で成績上位の者は成績優秀者一覧表に名前が載った。
出雲地区の全中学生にその成績優秀者一覧表が配られた。

F君はしばしば上位に名前が載っていた。
成績優秀者一覧表(10人~20人程度だったと記憶)に名前が載ると次回のテスト代(500円だったと記憶)が免除された。

僕は親に経済負担をかけまいと、テスト代500円を節約するために、模擬試験ではF君とともに僕も上位に名前を連ねていた。
5科目500点満点で4百数十点以上取れば出雲地区で上位者になれたわな。
僕がF君の上に名前が載ることは、たまにしかなかった。
彼のほうが頭が良かったからである。

高校では10クラス500人のうち、入試の成績上位の100人は特別クラスの1組2組に入ることになっていた。
この2つのクラスと残りの8クラスは同じ高校なのに教科書が違っていた。特別クラスは東大、阪大、京大、あるいは国立一期校の広島大学、岡山大学を目指す方針だった。

僕は高校入試の順位が500人中17位で特別クラス入りした。
僕が17位だったから、多分F君の入試試験順位は10位くらいだったろう。
そういうわけでF君と僕は同じ特別クラスで3年間一緒だった。汽車通学も一緒、教室でも一緒、いつも一緒にいた。

彼は性格も良く、頭も良く、スポーツもうまく、顔立ちも良かった。
当時流行ったハリウッド映画「卒業」の主役男優ダスティン・ホフマンにそっくりだったよ。

何一つ欠点のないF君だったが、高校に入ってからは小学校、中学校のときのような輝きを見せず、一歩引くようなおとなしい男になった。
 

F君と一緒に通った進学校は地方の中心都市に存在した。同級生はサラリーマンの子、商売人の子、いろいろいた。商売人の子の場合、親の商売人の規模が大きかった。彼らの親は、目抜き通りに何階建てのビルの店舗を構えていた。

F君も僕も田舎町の小商人の子であり、中心都市の商売人の子との富の格差が大きかった。僕は激しく引け目を感じた。たぶんF君も同じだったと思う。

高校時代の冬休みに僕が平田という町に遊びに行ったとき一畑電鉄雲州平田駅の駅前の通路で、屋台の上に正月飾りやミカンを並べて売っている少年がいた。顔を見るとダスティン・ホフマンみたいな顔をしていた。

そうなのだ売り子はF君だった。
彼の家は八百屋だったから、正月特需を狙ってあちこちで家族手分けして正月飾りを出張販売していたのだ。小商人の子はつらいよ。フーテンの寅さんの心。

厚顔無恥な僕でさえ地方中心都市の大商売人の子に引け目を感じたくらいだから僕より繊細な心を持っていたF君はもっと引け目を感じていただろう。

F君も僕も場末の田舎町の小中学校では世にも稀な英才であった。
しかし舞台が大きくなると話が違ってくる。

地方都市の進学校には近隣の町村からそれぞれの地域で一番頭のいい者が集まっていた。彼らは図抜けて頭が良かった。
高校ではなんぼ努力しても、僕は這い上がれなかった。
特別クラスのクラスメートのうち成績上位の3人は東大に合格した。
次の者は大阪大学に行った。僕の町で1位だったF君は国立一期校の広島大学に行った。
僕の町出身者の中ではやはりF君が一番ランクが上だった。
僕は国立一期校は無理で国立二期校に行った。

大学を卒業してF君は東京1部上場の家電メーカーに就職した。
会社員になってからのF君は意気揚々としていた。
高校時代と違って自信ある態度だったわな。

海外出張に行って帰って来ると、それを僕に報告にして土産をくれた。
欧州視察に行ってきたよと言って、彼が土産としてくれたビクトリノックス(Victorinox)の万能ナイフを僕は今も形見として使っている。

F君は定年までその会社に在席し、そのあと嘱託で関係会社に勤めていた。
住まいは関東の某県の県都だった。

F君は晩年、故郷の島根県にほとんど帰って来なくなった。
高校の同窓会が60歳半ばの頃、高校所在の地方都市で行われたときに彼は久しぶりに帰郷したが、生家のある田舎町には寄らずにそのまま地方都市のホテルに泊まった。それはなぜか?

F君は男3人兄弟の次男だった。
長男が八百屋の跡継ぎとなった。昭和50年代後半になると個々の小商人が店を出していてもジリ貧になるという危機感から小商人が協同組合を作りショッピングセンターを建てることが流行った。
通産省が公的資金を貸与して、その動きを加速させた。
小商人の中でも資金力のある店はショッピングセンターに参加した。

本来、一つの町にショッピングセンターは一つのはずが僕の町の商売人は3派に分かれて、3つのショッピングセンターが建った。
資金力のない商店(僕の店を含め)はショッピングセンターに入らず個店のまま古典的に生き延びようとしたが時代の波にさらわれて衰退した。
3つのショッピングセンターは激しく販売競争をやっていた。
休日返上でお互いが安売り合戦をやっていた。そうして疲弊して行った。

F君の兄の八百屋は、あるショッピングセンターの青果部門になった。
激務のせいでF君の兄は50歳代前半で頓死した。F君の兄が頓死する前の夜に僕は奇しくも宍道のスナックで一緒にカラオケを歌っていた。
その翌日、ショッピングセンター内でF君の兄は突然死んだ。

3つのショッピングセンターが不毛の戦いをやっていて苦しんでいるところへ、広島県から大手スーパーの「東京1部上場イズミ」が進出してきた。僕は地元議員になっていたのでイズミの社長からじかに、この町へ進出協力を要請された。
時代の流れだわなと僕は応諾した。

僕がお会いしたイズミの創業社長は日本海軍伝説のイ号400大型空母潜水艦の乗組員だった人である。復員後、広島駅前の屋台で干し柿を売ったの手始めに、徒手空拳で成り上がった英傑だった。

このイズミ進出が3つの協同組合型ショッピングセンターにトドメを刺した。3つとも来客数減少で経営不振となり閉鎖に追い込まれた。2つのショッピングセンターは後期高齢者増加に即応して葬儀場になった。
1つのショッピングセンターは撤去され、跡地が住宅地として分譲された。

F君は三人兄弟であり、兄は50歳代で頓死した。
弟は東京で勤めていたとき、ポルトガル人女性とめぐり逢った。
そのポルトガル女性を追ってポルトガルに渡り、ポルトガルに永住した。

長男が早死にし、三男がポルトガルに行ったためにF君の生家は空き家になってしまったのであった。
だから次男だったF君は帰郷しても帰るべき家がなかったのである。

新型コロナ発生の前の年に僕はポルトガル旅行に行った。その時現地の日本人ガイドに「僕の親友の弟がポルトガルに居る」と弟の苗字を告げたら、そのガイドが知っている人だと言う。
ポルトガルには日本人が数百人しかいないから、分かると言うのだ。

ガイドが連絡してくれてF君の弟とは首都リスボンの海岸で待ち合わせて会った。
弟は初老の人となり、総白髪になっていた。大西洋の海風に白髪が揺れていた。

「親の葬式のときに、君はいなかったね」

「日本は遠すぎて飛行機代が高くて帰れませんでした。親には、まっこと不義理をしました・・涙」

F君の弟は、自分の子供の結婚式はリスボンの有名教会でやったと僕に語っていた。自慢できることはそれだけだったのかもしれない。

僕はポルトガルから日本に帰ってきたときF君に弟とリスボンで会って話したよ、と電話するつもりでいた。

しかし運命は過酷である。
2019年秋、F君は嘱託で働いていた会社で頓死した。
享年68歳。F君もまた70歳の坂を越えることなくあの世に旅立った。

これにてすべて死んで逝った僕の友人たちの物語を終えます。
ご愛読を感謝します。ありがとうございました。合掌礼拝。黙祷。

  

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