汪兆銘は日本の敗戦を見る事なく1944年に名古屋の病院で死亡。
そのあとを継いだのが陳公博だった。
1939年8月に汪兆銘は上海で国民党第六次全国代表大会を開催し、新たな国民党を組織した。
中華民国は抗日の重慶政府と親日の南京政府に分かれた。
陳公博は南京政府の要人として日本とのパイプ役を務め昭和天皇から勲一等旭日大綬章を授与された。
日本が1945年8月降伏したとき、日本政府は日本に協力した満州国の溥儀、中華民国南京政権の陳公博、インド臨時政府のチャンドラボースを助けたいと思って、日本への飛行機を手配した。
溥儀は飛行機に乗る寸前にソ連軍に逮捕された。
チャンドラボースは乗った飛行機が墜落して死亡した。骨は今も日本で保管されている。陳公博と南京政府要人は間一髪で日本軍の飛行機に乗って日本への逃亡に成功。
東京や大阪や福岡ではアメリカ進駐軍に日本に協力した戦犯として捕まる恐れがあったので、陳公博一行を乗せた日本軍機は過疎地、山陰地方の米子市三柳にあった旧米子空港に着陸した。
一行は東郷湖畔の望湖楼に匿われたのち、京都市内に潜伏していた。
そこに中華民国重慶政府から日本政府に陳公博の身柄引き渡し要請があった。
せっかく日本に逃げて生き延びられるはずだったが・・・
陳公博は1945年10月、中国に連れ戻された。そして1946年6月、日本に協力した漢奸(国家反逆者)として銃殺された。享年53歳。

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