ツキがなかった安房館山藩主 里見忠義

株の世界も政治の世界もツキ次第です。そのことを覚えて隠岐魔将!!

徳川家康が居た時代に、ある山師が成り上がった。
武田家の下級武士だった長安という名の男の事だ。

長安は金銀を掘る技量に優れていたので武田家滅亡後に徳川家に仕え、譜代の重臣大久保忠隣の与力に任じられた。
大久保忠隣から名字を賜り、姓を大久保に改めた。大久保長安の誕生である。

大久保長安に石見銀山、佐渡金山の開発をやらせた徳川家康は利益の半分を上納させた。徳川家は大久保長安のおかげで豊かになった。
大久保長安も大富豪になった。大久保長安を配下に持つ大久保忠隣も財力をつけて、幕府随一の実力者になった。

安房館山藩主の里見家は大久保忠隣と縁を持っておけば安泰だと考え大久保忠隣の孫娘を藩主里見忠義の妻とした。

ところが政治の世界は一寸先が闇である。大久保長安が死んだあと大久保長安が貯め込んだ巨億の富を徳川幕府が没収する企画を立てた。
大久保長安一家が謀反を企んでいたという冤罪をデッチ上げて大久保長安の息子たちは処刑された。そのとき大久保長安を庇護してきた大久保忠隣も失脚し近江国に配流、井伊家に身柄を預けられた。

この事件に巻き込まれ、大久保忠隣の孫娘を正妻にしていた里見忠義も改易された。
安房国から伯耆国に転封という名目であったものの、実態は配流の身であった。配流先の倉吉に里見忠義と側近の家臣はたどり付いたものの、まともに領地を与えられず、少しばかりの扶持しか与えられなかった。
貧窮のうちに里見忠義は28歳の若さで憤死。
8人の家臣は生きて行くすべもなく、3か月後に殉死した。
倉吉の古刹大岳院に里見忠義の墓を囲むように殉死した8人の墓が残っている。地元の人は殉死した8人を「里見八賢士」と呼んだ。

里見家は館山城を本拠とし全盛時代は安房、上総、下総の3か国(今の千葉県全体)に勢力を張っていたこともあるのだが最後はツキがなくて山陰の片田舎倉吉で貧窮のうちに滅亡した。

この里見八賢士からアイデアを取って滝沢馬琴は「南総里見八犬伝」を書いた。
「八賢伝」の題名では徳川幕府を批判することになるので「賢」を「犬」に変えて小説を書いたのでございます。

先月、僕は伯耆国倉吉の古刹大岳院に参拝し、悲運の安房藩主里見忠義と殉死した8人の家臣の墓に向かって、株式相場必勝を祈願しました。涙。絶叫調!!

蛇足ながら時を経て徳川幕府が滅亡しようと言う時、多摩の百姓上りの新選組局長近藤勇は大名に取り立てられ、甲斐の国を賜った。官軍が天領だった甲府を向かっていたので、近藤勇に甲府守備を命じたのであった。江戸城に新選組がいると江戸城明け渡しが出来ないから甲斐の国をやると言って江戸城から新選組近藤勇、土方歳三をていよく追っ払ったのであった。

そのとき、幕府が大名に成り上がった近藤勇に与えた名前が「大久保大和」であった。近藤勇は歴史を知らんから大久保の苗字を貰って喜んだが、歴史を知る者は、大久保長安、大久保忠隣の故事から、死が待っている不吉な名前だと思ったことだろう。
新選組は甲州勝沼で官軍に敗れ、下総流山の戦いでも破れた。
大久保大和こと近藤勇は賊軍の首魁として板橋の刑場で斬首された。涙

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