河を渡った女の物語

(2001年07月16日掲載分)

A子はとりたてて美人ではなかった。かといって不美人というわけでもなかった。街を歩いていれば、どこでもすれちがい、とりたてて振り返って見ることもないごく普通の女だった。しいていえば小柄で歳より少し若く見えた。歳は30才台も終わりのほうで、結婚が遅かったのか二人の子供は小学生と幼稚園児だった。

A子は、とある保養所にパートで勤めていた。寝装店主だった僕の得意先の主婦がそこに勤めていたので、月末に掛取りに顔を出しているうちA子も注文をくれるようになった。女は良く買い物をする。対抗心があるのか、一人が何かを買うと別のひとりも買ってくれる。いつしかA子も僕の寝装店のお得意様となった。ここまでならなんの変哲もない退屈な話だ。ところがA子は僕と出会ったために人生のレールを踏み外すことになる。

A子の職場のパートの主婦たちが沢山買い物をしてくれるので、招待と称してA子を含む3人を松江のスナックに連れて行ったことがある。何軒もはしごをして連れて歩いた。A子はとてもうれしそうにしていた。こんなことで、そんなにはしゃがなくてもと思うくらい楽しそうにしていた。平凡な生活の彼女にとってはパラダイスだったのだろう。

しばらくして、職場である保養所へ行くとA子がにこにこして話しかけてきた。
「この前の飲み会、とても楽しかったわ。また連れて行ってね」
僕は気のない返事をした。そう度々飲ましていては採算が合わない。
「あなたスナックを沢山知っているのね。ママさんとも親しそうだったし、いつも飲み歩いているのね。羽振りの良いあなたを見て驚いたわ。寝装店ってそんなに儲かるものなの?」
「零細小売店なんてそんなに儲かるものじゃぁないですよ……」
僕は株式投資で儲かっていたので、その金で飲み歩いていた。商売で苦労して集めた金は惜しくて使えるものではない。
「なにか、サイドビジネスでもやってるの?私もお金が欲しいの。なにかいい話があったら教えてよ。亭主の稼ぎは悪いし、子供にお金がかかるし、ここのパート代は安いし…」
普通、こういう主婦に株の話しなどしないのだが、魔がさしたのかつい口がすべった。
「株ですよ。A子さんも少し金があるのなら買ってみたら?パート代くらい稼げるから」

それから一年後、僕が主催する株式研究会にA子は常連として顔を出すようになっていた。僕に教えられ、なけなしの金で買った1000株の株が暴騰しビギナーズラッキーで儲けその後も乗り換えた株がつぎつぎ当たり、数百万円になっていた。小口の投資家ではあるが女性投資家が会合に出ていると場が華やぐから、A子には会合に出るように言っていた。

僕が何かの銘柄を推奨すると間髪をいれずA子が立ち上がって言う。
「先生の言われた銘柄で私すごく儲かっています。今度も明日の寄り付きで買います!!」
女性に負けておられないと、オヤジ投資家が「俺も買うぞ!!」と言い出すのであった。

億の金をもっている人が儲ける一千万円より、金のない人が手にする10万円がはるかに価値があり、儲かったという感動があるものだ。A子は一ヶ月かかってパートで稼ぐ金より一日の儲けが多いことにビックリし、有頂天になっていた。儲かるとカーペットとかカーテンとかを買ってくれた。

カーペットをA子の家に配達したときのことだ。地図を頼りに、探し出した彼女の家は農家の造りだった。彼女は農家の主婦だったのである。
亭主が家にいてブスっとした顔で僕に向って言った。
「なにか用かい、セールスお断りだ。何にも買わないよ」
「これは奥様から注文の最新柄のカーペットです。お届けにあがったところです」
「いらねえよ。いまのカーペットで十分だ。うちはそんな無駄金を使う余裕はないんだ」
「そうおっしゃっても、頼まれてお届けに上がって、持って帰る訳には行きません」

押し問答の末、亭主に押し付けてほうほうの体(てい)で帰った。男は妻の買い物を嫌うものだが、この亭主ほどつっけんどんな男ははじめてだった。
月末に職場に集金に行くとA子がすまなそうに謝った
「イヤな奴でしょ。うちの亭主、安月給のくせに口うるさくて。あんな亭主なんかに私、いままでよく我慢してきたものよね。最近、あの亭主の顔を見るだけで腹が立つのよ」

A子は株で儲かるものだから、人が変わってきていた。A子は時には亭主の給料以上に稼ぐようになっていた。田舎の給料は安い。手取り20万円もないのが実情だ。A子の買う株数などたかが知れていたから、銘柄を仕込むとき先に教えてやっていた。先回りして仕込んでいる上に買い上がりなどしないからA子は確実に儲けていた。そのうち亭主の稼ぎを上回るようになってきた。それとともに亭主への悪口が激しくなってきた。

「なんで、よりによってあんなろくでなし亭主と結婚したんだろう。私、あなたみたいなお金儲けがうまい人と巡り会いたかったわ」
「どこの亭主も似たようなものですよ。僕も家内からは馬鹿亭主といわれてます、ははは」
「違うわ。あなたはすごいわ。あなたさえいれば私は生きていける気がする…」

A子の眼を見ると真剣な眼差しだった。これは、なにか大間違いを仕出かしたのかもしれないと寒気がしてきた。
悪い予感はほどなく的中した。ある夜、閉店後も店にいた僕に男の声で電話があった。
「こらぁ、お前、俺の女房になにをしでかしたんだ!!」
「なんのことでしょう?おしゃることが分かりませんが…」
「女房が子供を連れて飛び出していったんだよ。女房が私には清春さんがついている、と捨て台詞を言いいやがった。お前らどういう関係なんだ!!!」

激しい怒号に僕はビビった。そばにいたら包丁で刺し殺されていたかもしれない。亭主は嫉妬ぶかく、短気ですぐに手が出るタイプだとA子から聞いていた。
やばい、でも、ここにA子がいなくてよかった。
「奥さんと僕はなんにも関係ありません。なにかの間違いです。親戚でも当たってみては如何ですか」
なんとか亭主をなだめすかして、電話を切ってフゥーと溜息をついた。

そのとき、店に二人の子供を連れた女が静かに入ってきた。まさかA子じゃないよな、と女を良く見るとまさかのA子だった。冗談はよしてくれと叫びたかった。
「私、あのろくでなしの亭主とは別れることにしたわ。気分がせいせいしてる。あなたさえいれば私はもっといい人生が送れると思う。力になってね。頼りにしてるの」

頼りにすると言われても、僕にも女房、子供がいるのだ。
「こんな夜に家に押しかけられても困るよ。ほんと、何を考えてるんだか!」
自称秘書といい、このA子といい、こんな非常識なことがどうして次々に身の周りに起こるんだろう。僕には他人を狂気に導くなにかを持って生まれてきたのだろうか?

人の気配を察して家内が出てきた。家内は二人の小さな子供を連れたA子を見て目を丸くしていた。結局、彼女にはお引取り願った。彼女が帰ったあとで家内からは、一体どういう関係なのよとここでも怒鳴られた。狭い田舎で変な噂が立てば商売上がったりだし、エキセントリックな亭主に会っているだけに怖くてA子を口説く気なんて毛頭なかった。ただ金が欲しいと言っていたので、善意で金を儲けさせてあげようとしただけだった。
それなのに、A子の亭主には怒鳴られるし、家内からは締め上げられるし散々な目にあった。

他人を儲けさせて喜ばれるはずが、他人の家庭を破壊してしまった。A子は結局、子供を連れて実家に帰ったが、実家の小姑に煙たがられて都会に出て行った。それが彼女の持って生まれた宿命だったのか。
もしも僕が株のことを教えなければ、彼女は人生こんなもんだと、今も農家の主婦としてパートで生活費のやりくりしながら退屈で平凡な暮らしを続けていたかもしれない。
彼女は目に見えぬ暗い河を渡ってしまった。河の向こう岸に幸せが待っていたのかどうか、その後の彼女の消息は誰も知らない。
彼女のことを思い出す度に今でもなにか胸にうづくものがあって辛い。
このことがあってから僕は株を知らない平凡な主婦に株の話はしないことにしている。

                     河を渡った女の物語  完

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