どうする家康 一年間全部見た。

なぜ負けを覚悟の大阪夏の陣をやったか今回のドラマで分かった。

大阪冬の陣が先にあった。大阪城が堅城なので落ちなかった。
徳川方は優勢でありながら講和を申し込んだ。
講和の条件として大阪城の堀を埋められた。
堀を埋められ、もう戦える状態ではなくなった豊臣方が
なぜ再び大阪夏の陣で徳川方と戦ったのか?不思議だった。

今回のNHK大河ドラマで、大阪冬の陣のあとの講和のとき、豊臣方は「大阪城に集まった浪人たちに領地を与えてくれ」と徳川方に申し入れていた。

つまり、大阪城には戦国時代の負け組、関ケ原の負け組の家臣や元領主が蝟集していたのだ。
彼らは豊臣の旗の下、敗者復活戦を挑んでいたのだ。

だから徳川家康から「孫の千姫が嫁いでいた豊臣秀頼」を地方の大名にし、他の大名と同じく江戸に参勤交代するように、と言われても受けられなかった。仮に豊臣秀頼自身がそれでいいと思っても
大阪城に集まっていた浪人たちが納得しなかった。抑えられなかった。
浪人たちに領地を与えてくれという豊臣方の条件は切実なものだった。

徳川家としては負け組の浪人どもに扶持を与える気持ちはなかった。
豊臣秀頼は自分だけ抜け駆けで生き延びるわけにいかなくて城を枕に死ぬ覚悟で、負け組の浪人たちと一発逆転のバクチを張った。
それが「大阪夏の陣」だったということだ。

豊臣秀頼の心の奥底に、織田信長と豊臣秀吉の血統である自分が徳川にひれ伏し、おめおめと地方の一大名に成り下がることには、プライドが傷ついて耐えられないという思いもあったろう。

そこで勝ち目のない戦い大阪夏の陣が起きたのであろう。
男は、勝ち目がなくても時にはプライドの為に戦うことがあるものだ。

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