光世証券 巽 悟朗物語

(2000年7月21日掲載)

1995年春、光世証券を450円で1万株買い付けた僕は、その後350円まで下がる過程でナンピン買いをして株数を増やしていった。当時、光世証券は社員を180名程度に絞り込み、主軸をデリバティブを含むディーリング業務に切り替えていた。そういう身軽な証券会社のみが生き残れるはずと喝破した僕は、光世証券に賭けて見る気になっていたのだ。ところが、株価は下がったまま、うんともすんとも動かない。

業を煮やした僕は北浜に出向き社長の巽 悟朗氏に会って喝を入れねばという気持ちになっていた。
株主総会物語で述べたように、株を買ったら会社に出向いて見る、これは僕の鉄則で現場を見ないと気が済まないのだ。

戦後、証券マン出身で、自力で証券会社オーナーになった人物は立花証券の石井 久氏と光世証券の巽 悟朗氏の二人が代表格で、立志伝中の人達である。
昭和40年の証券不況を機に、証券業は免許制となり、簡単に証券会社が作れなくなっていた。

昨今の規制緩和で、いまでは、割合簡単に証券会社がつくれるようになったが、最近まで自力で証券会社をつくるなんて夢のまた夢であった。そういう意味で、株を志す僕にとって石井 久氏と巽 悟朗氏は憧れの人であったのである。

石井 久氏は「桐一葉 落ちて天下の 秋を知る」の名文句を以って、スターリン暴落を予告したことであまりにも有名である。
しかし株式新聞の編集をやっていた石井氏は、兜町のタブー「売りの推奨」を行ったとして非難を浴び、株式新聞を去らねばならなかった。
彼は売り専科の大先達であったといえよう。売り専科は現代の石井 久であり、兜町、北浜の目の仇、嫌われ者、抹殺の対象となっている。
(ちょっと買い被り過ぎか?)
そして石井 久氏は立花証券を買い取り、社長に就任したのであった。
それは昭和31年のことであるから、はるか昔のお話である。

本日の話は、語りつくされてきた石井 久氏の物語ではなく、もうひとりの英傑巽 悟朗氏の人物像についてである。

巽氏は昭和10年7月18日生まれ。65歳。同志社大学経済学部卒業。
地場証券で辣腕をふるい、昭和36年4月、若干25歳で光世証券を創業する。
資本金1600万円。当時としては大金である。彼は証券マン時代に月間300万株の商いをやっていたという。手数料に換算して月に1000万円以上
である。

地場証券で入社3カ月で課長に特進したというから、歩合給的報酬があったと推測できる。わずか数年で証券会社を興すほどの金をつくるには、定額の給与では無理である。貨幣価値の違う昭和30年代に月1000万円以上の手数料を揚げるのは並大抵のことではない。証券営業の天才と呼んでも文句を言う人はいないはずだ。

光世証券は昭和63年5月、大阪市場新2部に上場する。公募価格1300円に対し公開初値は2100円と人気化して、巽氏は莫大な創業者利得を得たのである。巽氏に関しては、相場師としての伝説を余り聞かない。
その謎を解くためにも、是非、本人と会って話がしてみたかったのだ。
1995年8月、僕は大阪の地下鉄堺筋線 北浜駅に降り立った。

北浜駅を降りて東に向かい南北に走る阪神高速1号環状線のガード下を通り過ぎしばらく進んだ所に光世証券本社はあった。
北浜駅から歩いて10分くらいであったろうか、目の前に黒茶色ぽい外壁のビルが見えてきた。そのビルの中に光世証券本社は入っているのである。
朝10時過ぎに会社につき来訪を告げた。巽 悟朗氏はこのとき社長で、社長室で僕を待っていた。
「お待ちしていました。わざわざ島根からいらっしゃんたんですね」
巽氏は満面に笑みを浮かべて僕を出迎えてくれた。
「清春と申します。お忙しい中、時間を割いていただいて、ありがとうございます」
巽氏の人あたりの良さに、こわもての僕も気が緩んだ。
彼の顔は西郷隆盛を可愛らしくしたような感じがした。体つきも西郷のように
がっちりしていた。ただし立志伝中の人物に共通のことであるが眼力は鋭かった。

「島根には親しい友人が多いんですよ。例えば山陰合同銀行の頭取さんなんかとは良く会っていますよ。清春さんもお知り合いかもしれませんが…・・」
そういわれて僕は困ってしまった。僕は一匹狼の投資家にすぎず、そういう
ハイソサエティの世界とは無縁の、雑草にも似た境遇だったからである。
「山陰合同銀行の頭取さんですか…ええ、よく知っていますよ、いいかたですよねぇ」目いっぱい、見栄を張る僕であった。

「社長は、ロンドン支店を閉鎖するなど、いちはやく業務の縮小を決断し
 バブル崩壊への対応が水際だっていましたね。
僕はその点に感心しているんです。
船場商人の和田哲の社長が扇子商法という本で、扇子は広げることは簡単だが
畳むことがむつかしい。
商売も景気のいいときに広げるのは誰でもやるが不景気になって縮小することは、なかなかできないものだ。こういっておられます。
本人と飲んで直接うかがった話しなんですが、巽社長は、その至難の縮小をみごと成し遂げられましたね」

まずは、よいしょから始めるのが、初対面の人との会話の定説である。
巽社長は我が意を得たりとばかりに語りはじめた。
「そこなんですよ。今回のバブル崩壊は根が深いですわ。私の会社は思い切った荒療治をしたんですけど、北浜の他の証券会社はあきませんで。どことは言いませんが下血状態で毎月赤字垂れ流しの証券会社がぎょうさんおまっせ」
話しに熱がおびてきて、巽氏の口調は大阪弁に変わってきた。

「それからな、欧米人とつきおうたら、あきまへんわ。あいつら、日本人から巻き上げることしか考えとらん。国際化の掛け声に乗って海外進出して大損でしたわ。日本の金融機関で外国で儲けてるところなんか、ないとちがいますか?見栄張って海外支店など持つ必要ありゃしませんわ」

さすが、証券営業の天才といわれただけあって、話術は天下一品、いつもはしゃべりまくる僕も圧倒されて聞き役に回らざるを得なかった。なんやかやの話題で1時間が過ぎた。巽氏はまだまだ話し足りない様子であったが、僕のほうから、肝心の質問をぶつけた。

「上場している証券会社はほとんど無配転落しているなかで、光世さんは5円配当を継続しておられる。株主として有り難いことではありますが、御社の利益は配当するにかつかつの利益しか上げておられない。
94年3月期 税引き利益1億6000万95年3月期は2億5000万円ですね。
こんな1億や2億の利益など個人投資家でも出せる数字ですよ。ははははははは。
総資産460億円、純資産300億円もあって、デリバティブをやっているなら、10億単位で稼いでもらいたいもんですね。これが株主としての率直な気持ちなんですがね………」
株主の立場であるからこそ言えるきつい一発であった。

いささか、ぶしつけな質問に巽氏の顔が険しくなり、ジロリと大きな目で僕を睨みつけた。
「清春さん、あなた、相場の真髄は何だと思われます?」
ムッした気持ちをぐっとこらえた様子で、巽氏は相場の持論を展開した。
「相場はまず損をしないことが第一義なんですわ。
 大儲けしようとして、デリバティブで大きく賭ける証券会社がありますけどな、一時的に儲けても、すぐに損をして、懲りて撤退してしまいますがな。
 うちは損をしないことを中心として取引を組み合わせています。
 損をせずに長く続けることが大事なんですわ。分かってもらえますやろか」
巽氏の言葉を聞いていて、僕は徒然草の双六の話を思い出していた。

双六(博打)の上手と言われる人に、その手立てを聞いたら「勝とうと思って打ってはいけない、負けないように打つべきだ。どの手が早く負けるかを考えて、その早く負ける手を使わず少しでも遅く負ける手につくべきである」
と答えたというのである。巽氏の損をしないことが第一というのと同義である。
この巽氏の言葉ですべてを理解した。巽 悟朗氏に相場での有名な戦いの伝説があまりないのは、彼の相場哲学から納得がいった。
証券市場で生まれた幾多のヒーローたちは、ことごとく破滅して消え去っている。
相場師と呼ばれ、もてはやされた人達は勝利と栄光を求めて突進して行ったからである。
「損をしないこと」
そこから始まっている巽氏に破滅は訪れない。
巽氏は相場師ではなく、合理的な投資家といえる人であった。

このたび巽 悟朗氏は晴れて大阪証券取引所の理事長に就任された。
5年前に巽氏に、「もっと儲けてみせんかい!」と喝を入れに押しかけたことを思い出すと汗顔の至りである。
あの、人を惹きつける話術、風貌と、合理的哲学で北浜を新しい時代にふさわしい姿に導いていかれることであろう。

後日談になるが、巽氏の人柄で自信を深めた僕は、田舎へ帰ると、光世証券を
500円以上に買いあがって、チャートをもみ合い放れに持っていった。
商いの薄い株ではチャートがつくれるものなのだ。
チャートの形に乗せられて提灯買いが、入り始めた。
何度か押し目があったが、年末には株価は700円をつけるところまで上昇した。
その過程で、手堅く儲けて全株利食った。1000株も残さずに売り払った。
光世証券と巽氏にロマンを感じない意識が僕の心の中のどこかに芽生えていた
ためだったかもしれない。
ともあれバブル崩壊の下での完璧な勝利だった。
いかに日経平均が下げ続けていても、銘柄さえ当てれば買いで儲けることは可能なのだ。

それから、数年間、巽氏からは年賀状と暑中見舞いの葉書が来ていたが、
もう、すべての株を売り払っていたので合わせる顔がなくて返事は出さなかった。そして、そのうち年賀状も来なくなった。

                      光世証券 巽 悟朗物語  完

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