戦国読物 尼子十旗 高瀬城城主 米原氏の流転物語

僕の家から標高300メートルの2つの山が見える。

一つは大黒山と言う。この山から出雲平野が一望できる。
神話時代に大黒様(大国主命)が出雲国統治の策を
この山の頂で考えたと言われている。大黒様が座ったという
大きな石が残っている。山頂に神社が建っている。僕は毎朝
相場必勝祈願を山頂の神社に向かって行っている。
時折山に登って「株で儲けさせてください」とつぶやきながらお賽銭も打っている。

隣り合うもう一つの山は高瀬山と言う。そこには戦国時代に
高瀬城という山城があり、尼子氏の重臣米原氏の居城だった。
毛利軍が出雲攻略戦をやったとき、高瀬城は堅城であった。
毛利と尼子の激しい戦いがあった。畑の中に小さな塚が点々と
残っている。それは多分、毛利と尼子の戦いで死んだ武将の死体が
あった場所なのだろうと僕は個人的に霊視している。

高瀬城の城主の米原氏はもともと近江の国(今の滋賀県)の
米原市にあった米原城の城主だった一族です。
それで米原の姓を名乗ったのです。近江国の戦国大名浅井長政の
家臣でしたが、織田信長に浅井家が滅ぼされ、浪人となって
出雲国に流れついたのです。
なんで出雲国に来たかというと、尼子氏を頼ったのです。

尼子氏も近江国犬上郡尼子郷の出自で佐々木源氏京極家の分家です。
近江国の佐々木源氏京極家は近江国を地盤としつつ、
鎌倉幕府より出雲国と隠岐国を賜って支配していました。
守護であった京極家を守護代だった分家の尼子氏が倒して
尼子時代を築いたのでございます。それで近江国米原城主の末裔が
僕の生まれた出雲国の村の高瀬城城主になったわけです。

尼子家が毛利家に降伏したとき、山中鹿之助や亀井氏は京都に
逃れて尼子家復興を狙い、織田信長、豊臣秀吉の臣下になります。
一方米原氏は尼子本家とともに降伏して、毛利の家臣となり
長門国(今の山口県)萩に移住します。

それから月日が流れて幕末となり、毛利家が徳川家を破って
明治維新となります。毛利家の武士は毛利の殿様が征夷大将軍になり
自分らは一国一城の主になれると妄信していました。戦国時代感覚でした。

ところが廃藩置県、廃刀令で武士の身分もなくなることになった。
怒った毛利家の武士は明治政府に反抗して反乱を起こします。
それを萩の乱と言います。

萩の乱を指導した武士の名は前原一誠です。
そうです前原一誠は高瀬城城主米原(まいばら)氏の末裔なのです。
毛利に降った尼子米原氏は姓を同じ発音の「前原」に変えていたのです。

萩の乱を起こした毛利家の武士たちは明治政府の官軍との
戦いに破れ、皆処刑されました。前原一誠は船に乗って脱出し、
向かった先が先祖の居た場所出雲国(このときは島根県になっていた)でした。
出雲大社の北方の港に上陸した萩の乱首謀者前原一誠は、
すぐに島根県警に捕縛され謀反罪で処刑されました。

前原一誠は、萩の乱には失敗したが
最後に、先祖が城主だった出雲国にたどりいて、
出雲国にて死ねたことは本望だったことでしょう。涙。

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