栄光なき人助け物語

(2000年8月19日掲載)

昭和63年(1988年)初頭、僕は新橋駅西口に立って道行く人の群れを眺めていた。真冬のこととて、サラリーマン達はコートの襟を立て寒そうではあったが、顔つきは明るかった。暮れのボーナスはまずまずであったし、経済も、土地も、株もすべてが右肩上がりで日本の繁栄が永遠につづくと皆が信じていた至福の時代だったからである。

僕は新橋にある日本ヒューム管という会社を訪問しようと上京して、新橋駅に降り立ったところだった。
日本ヒューム管という会社は読んで字の如く、ヒューム管をつくっているだけの何の変哲もない会社である。資本金10億円発行株数2000万株で浮動株400万株。1部上場としては一番小さな会社であった。

かっては、この規模で貸借銘柄だったので仕手筋の玩具にたびたびされていた。業績が悪いから上がればカラ売りがはいりやすい。
浮動株が少ないので、売り方を締め上げるのが簡単なので昭和53年には当時としては高値の694円まで上がるという踏み上げ相場を演じたこともある。

確か、そのあとで貸借銘柄から除外され現物銘柄に落とされたはずである。無配が長く続いていた。ヒューム管のような附加価値の小さいわりには大きくて重いものを作っていて、しかも同業者が多く競争が激しいとくれば、儲けろというのが土台、無理な相談だ。

それでも株価は800円台とまあまあの水準にあった。とはいってもバブルに突入していた当時、無配といえど1部上場で800円は低位株といって良かった。そんな日本ヒューム管になぜ目をつけたかについては、物語の進展の中でおいおい、お話することになる。

駅から10分も歩いたろうか。大通りに面した一等地に本社はあった。自社ビルであったが、いかにも古臭い昔風のビルであった。
「遠いところから、ようこそいらしゃいました」
応接間で待っていると、総務部長の佐藤さんという人がにこにこしながら現れた。
やせても枯れても一部上場企業だ。小口株主に専務や常務は出てこない。
「はじめまして。このたび御社の株を買いつけましたので、お話を聴きに伺いました。

私は株を買うと、その会社が見たくなるんです。前もっていっておきますがたんなる個人投資家であって総会屋ではありません」
「そうでしょう、総会屋さんには見えませんよ。はははは。
 それで、お聞きになりたいことはなんでしょうか?うちのような地味な会社、特にお話することはないし、わざわざ株主だと名乗ってやってくる人もあまりいらっしゃいませんので、どう対応しようかと思っていたところなんです」

「そこなんですよ」と僕は身を乗り出した。「御社は、業績には失礼ながらみるべきものはありませんが、関東を中心に全国に工場をお持ちです。府中、下丸子、川崎、熊谷などは、昨今の土地ブームですごい値上がりをしています。
 この土地の有効活用をはかれば、御社の業績は様変わりになると思いますが…」

僕は前もって川崎工場だけだが下見していた。駅の近くの工場で敷地面積33000㎡簿価400万円 時価は公示価格で100億円。大正時代に創業されているのでどの工場敷地も簿価がタダ同然で、全国の保有地は70万㎡にも及び、しかもすべての土地の簿価をあわせても僅か10億円だった。資本金10億円の会社が1000億円相当の土地を保有していたのだ。大平製紙を見学したときと同じ興奮が体の中を駆け巡っていた。

しかし、僕の熱弁に対する答えは肩透かしだった。
「あなたは株を通して、うちの会社を見ておられるから、そういうふうにおっしゃいますが、われわれはメーカーとして長年やってきていますから、工場は工場として稼動していかねばならないのです。納品の責任もありますし…」

佐藤部長はいかにもメーカーの社員風な風貌でとつとつと諭すように語った。
なにか町工場のおじさんと話しているようで、それ以上何も言えなくなった。
考えてみれば、700人からの人が働いているのだ。工場を売って金にしたり、工場をマンションにしてしまえば、働いてきた人は行き場を失ってしまう。

アメリカの映画、ウォールストリートの劇中、同じような会話が出てきて
ハッとしたことがある。
この、おじさんに話しても、無理だわ、と僕は話題を変えた。
「本社は一等地にあるのに、ずいぶん古い建物ですね。新橋ならテナントはいくらでも入るでしょうから、もっと今風のビルに立て替えたらどうですか?」
「そうなんですよ、このビルは年代物ですから、立替の計画はあるんですけどね。建設資金のこともありますしねぇ~」

「ああ、そんなことなら、簡単ですよ。20億でも30億でも、僕が作って
 差し上げますよ」
「ええ~っ、それは、ど、ど、どういうことですか!」
今度は温和な佐藤部長のほうが、目を見開いて身を乗り出してきた。

僕は煙草の火をつけて、ひと呼吸おいた。相手が興味を示してきたら、間をおいてじらすことで、相手はいよいよこちらのペースに嵌まってくる。
「いま、御社の株価は800円から900円どころでウロウロしていますよね。これを倍の株価にして差し上げますから、そこで時価発行増資をしたらいい。

200万株も発行すれば20億円や30億円はすぐ手に入ります。その金には 金利がかからないから、本社ビルのような本質的に利益を生まない設備投資にはもってこいですよ。そのかわり、株を買い上がっている最中に悪い情報を流してもらっては困ります。なんでもいいから、明るい話しを新聞に提供してくださいよね。ははははは」

佐藤部長は目をぱちくりさせて聞き入っていた。もうこっちのペースだった。
「その時価発行というのは、どうすればいいんですか?」
「そんなことは、担当の証券マンと相談なさい。幹事証券が面倒みてくれますよ。証券マンなんていうのは、来るなといわれても行くように教育されていますから毎日顔を出しているでしょうが」
攻守ところを変えて、知らぬ間に、僕が部長に諭していた。

「それがですね、うちは金がないので、幹事証券もめったに顔を出さないんですよ」ここで僕は噴出しそうになったが、失礼に当たるのでじっとこらえた。
考えてみてば、昭和40年から20年以上も資本金が10億円のまま、増資もしなければ借金が78億円もあって、金利の支払いで手いっぱいで、資金運用どころではない会社に利にさとい証券会社が寄りつくはずがないのだ。一部上場でもこの有様だから二部や店頭の名もない会社を訪問すると、幹事証券の担当者が来たことがないという話しはしょっちゅうである。

「いいでしょう、幹事証券が乗って来なかったら、僕が証券会社を紹介して、時価発行増資のお世話はします。まず、幹事証券まで出向いて、相談して見て下さい」
「はい、わかりました。本当にいい話しをきかせていただきました」
佐藤部長は深深と頭をさげて、僕を見送ってくれた。

田舎へ帰ると、猛然と日本ヒューム管を買い始めた。僕の友人達もこぞって参戦してきた。それまで推奨した銘柄すべて値上がりしていたから、僕が日本ヒューム管と一言いえばなにが材料かなどと聞きもせずに買い注文を出す者もいた。1000円の壁は簡単にブチ破って、2月には1200円まで買い上がった。

浮動玉が少ないので面白いように上がっていく。3月には提灯もついて、光ファイバー関連だと騒がれはじめた。なんでも、下水道管の中の光ファイバー網を敷設するためのロボットを日本ヒューム管が開発販売するということだった。ロボットなら、専業の先端企業があるだろうにと、ロボットなどと無縁に見えるあの古い本社を思い出して笑っていたがいい情報はありがたい。株価に弾みがついて1300円1400円と高値を更新していった。友人たちも大喜びで連日連夜のドンちゃん騒ぎだった。

その後、押し目を入れながらも、あけてバブルの最盛期、昭和64年、すなわち平成元年(1989年)秋には1700円となった。株価は予告どおり2倍になったのである。
その頃、上京する機会があり、なつかしくなって、ふらりと日本ヒューム管の本社へ立ち寄ってみた。
佐藤部長は、僕の顔を見るなり、とてもうれしそうな顔で迎えてくれた。
「清春さん、よくおいでなさいました。さっそく建築中の本社ビルを案内しますからね」

部長は案内しながら、新しいビルの構造や外壁の色のことなどを、まるでサラリーマンが退職間際にやっとマイホームを建ててうれしくてたまらないといった様子で説明してくれた。
普通ならうるさく思う建築現場の槌音が僕の耳に心地よく響いていた。
「あなたのおかげです。あなたのおかげで、うちの会社はこの立派なビルを建てることが出来ました」 佐藤部長は僕の手を固く握った。
僕の教えどおり、日本ヒューム管は1988年に300万株の時価発行増資を行い、30億円の資金を手にしていたのである。
佐藤さんのうれしそうな顔を見て、僕もうれしかった。株を買い上がって、会社に感謝されることもあるのだ。金がないと嘆いていた無配の会社が、本社ビルも新築して資金繰りも楽になった。従業員の首を切らずに済んだのである。
僕はただ、自分の相場観で自分と友人の利益のために動いたが、
そのことがひとつの会社に福を与えたことは事実である。

その後、四季報をみても佐藤さんの名前は役員欄にない。無名で相場に生きる僕に向かってあなたのおかげで本社が建ったなんて本音をいうような実直なおやじさんでは熾烈なサラリーマン社会ではのし上がれなかったのかもしれない。

こんな話しを人様にしようとは、これまで思わなかった。しかし、封印を解いて語ったのも株式市場のお陰をこうむって、助かった企業がたくさんあって、それを支えているのが、我々投資家なのだと誇りを持っていただきたいがためだ。僕のことや、この裏話など日本ヒューム管の社員は知りもしないだろう。
1989年10月、本社ビルは完成し、祝賀会が盛大に催された。

寂しいことに僕は新聞でそのことを知った。道端の草のように名も無い僕が、そんな晴れがましい席にお呼びがかかるはずはなかった。相場に生きる者に栄光はない。浴びせられるのは賞賛ではなくて、罵倒の声だけだ。サラリーマン生活の最終段階で本社ビルを建て替えることができて、子供のようにうれしそうにしていた佐藤さんの顔を見ることができた事だけでよしとしなければならない。握りあった手のぬくもりだけが、僕にとっての勲章だった…………。

                  栄光なき人助け物語    完

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