中高年の希望の星 是川銀蔵物語

(2000年5月12日掲載)
是川銀蔵が株式相場で儲けて所得番付日本一になったことは、昭和58年5月に発表された昭和57年分高額所得者リストで日本中の人が知るところとなった。
誰もが株の相場師が日本一になったことに吃驚したが、是川銀蔵という男の年齢を新聞紙上で確認して二度仰天した。是川銀蔵84歳。普通なら惚けが始まり、自分の家族をつかまえて「お宅さんは、どなたさんで?」と訊いていてもおかしくないほどの超高齢の相場師の登場で日本中が沸きかえったのである。

是川銀蔵はいかにして84歳にして200億もの株式資産を持つに至ったのか。その足跡を辿ってみれば、いま40歳~60歳のあなたも200億円を手にするヒントがつかめる!かもしれない。

是川銀蔵は明治30年、兵庫県赤穂市の貧しい漁師の末っ子として生まれた。高等小学校を卒業後14歳で神戸の貿易商に丁稚奉公をはじめた。しかし2年後奉公先が倒産、だが16歳の銀蔵はおち込むではなく、むしろ発奮をした。
「人に使われていたのでは、いつまた解雇されるかわからない。それなら思いきって自力で 生きていこう」
リストラに怯える平成の中高年が、憧れながらも踏み切れない独立独歩の道を銀蔵少年は歩み始めたのである。

大正3年、退職金20円をはたいて中国大連に渡った銀蔵は、シベリア鉄道を利用してロンドンへ向かう計画であった。ちなみに筆者もソビエト帝国全盛時代の1971年、シベリア鉄道でモスクワにいったことがある。大学でロシア語を第1外国語にしていて、ロシア語の教授にモスクワから手紙を出したら、教授がすっかり感動して授業にあまり出ていないのに優をくれたっけ。ソビエトへ行く人間は珍しかったからなのだが、あの国も今は滅亡して二度と誰も行くことが出来ない。みんなが平等に貧乏している変な国だった。話しを元に戻そう。

旅費を稼ぐために大連で働いているうちに第1次世界大戦勃発でロンドン行きは不可能に。またしても挫折する銀蔵であったが、ころんでもただで起きる男ではない。敵国ドイツの租借地、青島を攻略する日本軍に取り入って軍需物資を納入する御用商人となり蓄財するのであった。その金で、袁世凱によって失脚させられていた孫文の再蜂起を支援、革命軍の武器弾薬を援助して中国の御用商人たらんとするも、孫文の革命軍敗退ですべては水の泡、またしても挫折、しかし銀蔵は何度でもしぶとく蘇るのであった。

その後、朝鮮に渡り是川鉱業を創業、後に国策会社是川製鉄も設立し従業員3000人の大企業主となる。だが銀蔵の行く手にはいつも暗雲が待ちうけていた。昭和20年の敗戦ですべての財産は没収され、戦争協力者として逮捕投獄されてしまったのである。
幸い銀蔵は会社経営において能力主義をとっていて朝鮮人も仕事ができれば日本人より上の地位につけたりしていたので昭和21年釈放されて日本へ戻ることが出来た。またしても無一文からの出発である。是川銀蔵はすでに47歳になっていた。
     
朝鮮から命からがら逃れ返って来た是川銀蔵は、それから14年間、金には縁のない生活をしていた。戦後の食料不足を見て、米の二毛作を思い立ち高知県に行き農業をやっていたのだ。農業では金にならない。この時期の是川銀蔵に筆者は興味がないのでその時代のことに興味のある人は農協へでも行って話しを聞いていただきたい。

昭和35年、おりからの株式ブームに是川銀蔵の心が揺れた。このまま貧乏で人生を終わりたくない、もう一度金儲けがしてみたい。家族に楽な暮らしをさせてやりたい・・・。
ついに銀蔵は農業に見きりをつけて株式投資で身を立てる決心をするのであった。ときに、是川銀蔵63歳。
ああ一体どこに農業をやっている63歳の男で、これから株で身を立てようと
思い立つものが現代にいようか!40歳台50歳台で人生が終わったように
諦めてしまっている平成の男たちに、銀蔵のこのときの熱き志を声を大にして伝えたい。

農業をやっていたから投資資金とてなく、親戚、知人から金を借り集めてのスタートであった。このころの銀蔵は投資資金も少なく、無名のどこにでもいるような、町の投資家にすぎなかった。
それでも相場が良かったので家族の生活は株の儲けでまかなえたのであった。
株をやっていると世の中の動きに敏感になる。池田勇人首相の所得倍増計画で土地が値上がりすると睨んだ銀蔵は友人に金を借りて堺市東南の丘陵地帯の農地を坪当たり300円で購入した。
昭和40年、大阪府は泉北ニュータウンを堺市に建設、銀蔵は大阪府に土地を売却、3億円の金を手にしたのである。
この金を株式投資に投入、銀蔵は北浜で序序に名が知られるようになっていくのであった。しかしまだ、このころの銀蔵は単なる投資家の域を出てはいなかった。

銀蔵が3億円の土地売却金を手にしたときが丁度、証券恐慌のころで、ダウ1000円割れをいかに防ぐかが課題になっていたくらいだったので、株式のバーゲンセールであった。そこから昭和48年のダウ5123円までの上げ相場で銀蔵は3億円を5倍以上に増やした。
ダウが5倍になる中で、8年かかって5倍、6倍くらいなら、たいした腕ではない。ここまでは普通の大口投資家のお話でしかないが、ここから是川銀蔵の名が世に出るのである。

昭和51年、銀蔵は日本セメント株一本に投資資金を集中することを決意する。昭和49年のダウ3355円への暴落で日本セメントの株価も例外ではなく、昭和48年には300円以上していたのに115円まで暴落、昭和51年になっても120円~130円くらいで低迷していた。
「政府の景気テコ入れ策で公共事業が増やされセメントは必ず暴騰する!」
業界NO1の日本セメント株の値上がりを銀蔵は確信したのである。
現物で仕込んでは、それを担保に信用で買う。また現物で買っては信用で買う。

これを通称2階建てという。このやりかたは当たれば儲けも大きいが外れれば、それこそ元も子もなくすバクチともいうべき投資法である。
実は筆者もバブルのときは2階建て戦法で儲けたものである。
昭和51年7月までに銀蔵が買い集めた株数はなんと3000万株にも及んでいたのである。不況で売り物はいくらでもあり、買いコストは150円以下であった。

昭和52年の後半になると大量推奨販売を得意とする野村証券、別名ノルマ証券が財投関連株として日本セメントを大々的に推奨しはじめた。7月までは100円台だった株価が8月には200円台に乗せ、10月には250円突破、12月には337円の高値を示現したのである。
銀蔵はこの上げ相場に順次、売りをぶつけて3000万株すべてを場で売りぬけることに成功。この日本セメント相場で銀蔵は30億円の利益を出して、相場師是川銀蔵の名は証券市場にとどろき渡ったのであった。

余談になるが、野村証券との間になんらかの癒着があって銀蔵はうまく売りぬけることが出来たと筆者は睨んでいる。銀蔵という男は権力に摺り寄り権力を利用してうまく立ち回る才能というか、狡さをもっているのだ。日本軍に取り入り朝鮮総督府に取り入り、また戦後は大阪府の土地買収に先立って堺市郊外の農地を買占めるなど、権力に食い込んでゼニを設けるタイプであるがゆえに、野村にも食い込んで、うまく立ち回ったと容易に想像しうるのだ。そのことを頭に入れておくと、野村をはじめとした大手証券に敢然と戦いを挑んでいた誠備軍団のリーダー加藤あきらと銀蔵が対立する構図がよく理解出来るのである。
              
昭和52年から53年にかけて日本セメントをうまく売り抜けた銀蔵は次に同和鉱業を仕込みはじめ昭和54年には2200万株保有の筆頭株主となった。買値は120円から270円くらいまでであったが、是川銀蔵が同和鉱業を買っているという噂はすぐに世間に知れ渡り提灯買いが入って昭和54年暮れには442円まで株価は上昇した。

翌55年にはソ連のアフガニスタン侵攻による非鉄金属相場の高騰を受けて、株価は1月には800円台に突入、2月には900円まで暴騰したのであった。ついているときには買っている株にいい材料が飛び出してくるもの。ここで売りぬければ万万歳であったのに銀蔵も人の子である。最初は500円あたりで利食う気でいたのにこりゃあ1000円にも1500円にもなると自分も提灯筋と一緒になって熱狂してしまい利食うどころか自ら買い増す有様であった。結局2月の900円が天井となり下げに転じた同和鉱業株は3月には、銀買占めをしていたハント一族の資金行き詰まりに端を発した非鉄金属相場の総崩れで下げ足を早め6月には455円と高値の半値になってしまったのである。

下げに入った株を市場で大量に売りに出すことは株価をさらにさげることになる。進退極まった銀蔵であったが、ここで野村証券が助け舟を出した。銀蔵の持ち株のうち1000万株を肩がわりしてくれたのである。
野村証券にとって銀蔵は大口商いをしてくれる上得意であったし、株を大量に買ってもそれは純投資で、会社側に口出ししたりはしない優等生であったからである。

加藤嵩のように大手証券に非を唱えたり、買占めた会社と対決するような相場師を排斥し、是川銀蔵を個人投資家のスーパースターで居させたかったのである。
本来、大勝利できたはずの同和鉱業仕手戦では、欲に目がくらみ利益を上げることに失敗した銀蔵であるが、野村証券の温情で30億円の元金はそのまま残せたのである。

昭和56年9月、鹿児島県菱刈金山で高品位金脈が発見された。鉱区を持っているのは住友金属鉱山。是川銀蔵の血が騒いだ。「同和鉱業で儲け損なった仇を住友金属鉱山で取るのだ!」 電光石火、200円台で低迷していた住友金属鉱山の株を買いまくり9月中には4000万株買い集めてしまったのである。この決断の早さは相場師に必須の条件である。世間はまだ菱刈金山の新鉱脈を疑っていたし、住友金属鉱山自身もまだ海のものとも山のものとも決めかねていたのである。しかし株価は10月には615円まで暴騰、翌昭和57年3月16日408円まで反落して苦しむもここを大底に3月17日、日本経済新聞が「菱刈金山の金埋蔵量100トン、地金換算2500億円、開発に着手」の記事を一面トップに掲載すると相場は一転、買注文殺到3月31日には1000円を突破したのである。

銀蔵はこんどは熱くならなかった。売りは迅速、買いは悠然の格言どおり
1000円を越えたところから熱狂的買い注文にぶつけて持ち株をはずし、全株をきれいに利食ったのである。株価はというと、その後も上がり続け年末には1350円昭和58年には1670円、昭和59年には1950円となっている。しかし同和鉱業での失敗から学んだ銀蔵は確実に利食う方を選んだのである。かくして是川銀蔵は昭和58年の所得番付日本一となったのである。

銀蔵は黒川木徳証券の外務員からのし上り、誠備グループを率いていた加藤あきらが大嫌いであった。是川銀蔵と加藤嵩は当時の仕手戦の両雄であった。
加藤あきらは大口個人投資家の金を集めて仕手戦を演じていたが、銀蔵は自分の金で相場を張っていた。銀蔵にとって加藤は胡散臭い小僧にしか思えなかった。また銀蔵は野村に助けてもらったりしており、体制内の人物であった。一方、加藤は体制から迫害される反逆児であった。筆者は加藤の生き方に共鳴していたので銀蔵の加藤嫌いはいただけない。誠備グループから是川銀蔵に誘いがあったらしいが彼はきっぱり断ったうえに、誠備銘柄にカラ売りをしかけて加藤潰しに加担している。

その後、是川銀蔵は不二家株を大量に仕込むが売りぬけに失敗。その後相場師としての成功譚はあまり聞かれなくなった。彼を待ちうけていたのは国税庁の苛酷な税の取りたてであった。当時は源泉分離課税制度がなく大口の株式取引をしていると大抵、国税庁がやってきたものである。
是川銀蔵は累進課税と過少申告ペナルティ、税延滞利息を含め儲けの90%を税金で取られ、株が下がっていて金の工面が付かず、土地も売って工面をしたがその売却代金にまた税金をかけられ、尻の毛まで国家によってむしりとられてしまった。反体制相場師 加藤は国家によって罪を着せられて獄中に追いやられたが、体制側相場師 是川銀蔵にも国家は決して甘い顔をみせることはなかったのである。

是川銀蔵が老人ホームで死んだと、年号が平成になってしばらくたったある日、新聞で読んだ。小さい記事だった。バブルが崩壊し、人々は株式相場から離散し老いた相場師が死んだことなど、もう誰も関心もなく気にとめる人とてなかった。筆者自身、是川銀蔵が何年何月にどこで死んだか、切り抜きさえしていなくてここに書く事すらできないのである。

                    中高年の希望の星 是川銀蔵物語  完

(追記)
是川銀蔵氏は借金24億円を抱えて平成4年(1992年)に95歳で死去しておられました。

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