一番北に位置する第1滑走路は日本海軍航空隊飛行場のあった場所に作られている。
敷地内に第一航空艦隊司令部の二階建ての建物が残っていた。
猛烈な爆撃を受けたため壁や天井の所どころに大穴が開いていたが、それでも厚いコンクリート壁で頑丈に作られているので建物の外観は昔のまま残っていた。
建物の中には日本式風呂場、和風便所、台所、流し台があって、戦闘の指揮をしつつ亡くなった上級将校の生前の暮らしぶりが偲ばれた。
僕以外、司令部には見学者が一人もいなかった。寂しげな光景だった。
B29原爆装着の穴は第一飛行場北部にあった。
穴は広島行のエノラゲイ(濃縮ウラン爆弾リトルボーイ搭載)用と長崎行のボックスカー(プルトニウム爆弾ファットマン搭載)用の二つあった。
二つの穴と記念碑は100メートルくらい離れた場所にあった。
海兵隊の演習中であったからなのだろうか、原爆装着発進記念碑も観光客は一人もいなかった。
ここに限らずテニアン島ではどこに行っても誰も人がいなかった。サイパン島の戦跡と大違いだ。
それぞれの穴に英語の記念碑的な説明文があったが、膨大な死者については何も書いてなかった。
あまりにも多くの女子供老人の非戦闘員を無慈悲に虐殺したので、その点には触れたくないのだわさ。
僕の義理の叔父が長崎市内の造船工場で働いていてファットマン投下の被害に遭っている。
僕は、広島と長崎の爆心地とテニアン島の原爆搭載機発進地の両方に行けて感無量だった。
やっとたどり着けたB29エノラゲイ号、ボックスカー号の発進場所で僕は原爆で殺された何十万人もの日本人に心より哀悼の意を表しつつトラスト戦線、C&G聖戦の必勝を目を閉じてずっと祈祷し続けた。

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