三洋証券の落日

2001年7月15日掲載

1990年(平成2年)夏、日経ダウは前年89年12月に天井を打っていたが2部株や店頭株はまだバブルの余韻をひきずっていた。
僕は指導している株の仲間を3人連れて、三洋証券が江東区に建てた巨大ディーリングルームを見学した。その頃、三洋証券の子会社で株式取引をしていたので僕等が行くことは事前に知らせてあった。

ディーリングルームの入り口で坂本さんという常務が待っていて、じきじきに館内を案内してくれた。いくつかの彫像が立っているロビーは、あきれるくらい広かった。
ディーリングルームの広さは東京証券取引所とみまごうほどであり、正面にはバカでかいスクリーンがありチャートが映し出せるようになっていた。

常務にいくつかの銘柄をお願いすると、目の前に巨大なチャートが映し出された。
「すごいもんですね、噂以上の設備ですね」と坂本常務に語りかけた。
「ええ、まあ・・・」常務はあまり自慢気ではなかった。
三洋証券は100億株の出来高を想定して、この巨大な建物をつくったのだが東証の出来高は100億株どころか10億株にもはるか手が届かない薄商いが続いていて広いフロアーは閑散とし、社員も手持ち無沙汰気味であった。

「非常にいいものを見せていただき勉強になりました」
常務に深深と頭を下げて巨大ディーリングルームを後にした。
その夜、ホテルのラウンジで酒を飲んでいるとき、仲間のひとりがこう切り出した。
「清春さん、今日は本当に勉強になりました。これでハッキリと決心がつきましたた。
明日から持ち株を全部売り払って、その金を担保に目一杯カラ売りをかけましょう。
三洋証券のような中堅会社があんなものを建てるようでは相場はもう終わりです。
これからはカラ売りで儲けるしかありません」

「折角東京にまできて美味い酒を飲んでいるとき、縁起の悪い事いわないでよ」
僕は顔をしかめて彼をたしなめた。僕等は買いでスクラムを組んで相場を張ってわずかな投資金額をそこそこに増やし三洋証券の役員が出迎えるほどまでになっていたのである。
「この下げは一時的なもの。日本の技術力は世界一だし、日本は世界最大の債権国ですよ
なあに、ここを底にこんどはダウ5万円にも10万円にもなりますよ。」
僕は自分の心に生じかけていた不安をかき消すように強気を言った。
あとの2人はそうだそうだと相槌を打った。
そう信じたかった。実際まだ僕等はそんなに痛手を蒙っていなかった。

「清春さんがなんと言われようと私はこれからカラ売りに転じます。あなたにはいろんな銘柄を教えてもらい資産も増えましたが今日を限りに仲間から降りることにします。もう一度言いますが、みなさんカラ売りで一緒にやっていきませんか?」
僕は日本を売る気になれなくて、彼とはその日を境に袂を分かつこととなった・・・。

その日から7年後、三洋証券は倒産し、ダウは10万円のはずが1万円を割るかどうかが囁かれるありさま。ひたすらナンピンを続けた僕や仲間はみるみる資産を刷り減らしていった。一方カラ売りに転じて、ありとあらゆる株を売りまくった彼は巨億の富を手にした。
日本の未来を見せてあげようと企画した三洋証券巨大ディーリングルーム見学で僕等は未来を見誤り、彼は未来を見抜いた。

大相場師になった彼に、その後会う機会があった。彼はなつかしそうに言った。「清春さんには三洋証券に連れて行ってもらって本当に感謝しています。」
「お役に立ててなによりでした・・・」
僕は複雑な気持ちで寂しく笑いながら答えた。

                                三洋証券の落日 完

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