駿河大納言徳川忠長は本当に殺生大納言だったのだろうか?

二代将軍徳川秀忠と妻お江の間に二人の息子がいた。

兄の家光と弟の忠長である。二人の姉が豊臣秀頼の妻になった千姫である。
将軍秀忠と妻お江は織田信長似で容姿端麗、利発な忠長を可愛がった。
お江は織田信長の姪である。
忠長の名前が秀忠と信長の名前から一字づつ取ったものであることからも忠長を寵愛していたことが分かる。お江は織田信長似の徳川忠長を三代将軍にしたがった。
お江はカカア天下で秀忠を尻に敷いていたから、お江の意向で三代将軍は忠長で決まりそうになった。

しかし、大御所の徳川家康は自分の名前の一字を与えていた家光を三代将軍にした。
徳川家康は長男が家督を継ぐことを徳川幕府の鉄の掟にしないと家督争いで徳川幕府が乱れ長続きしなくなると考えていたのだ。

将軍になれなかった忠長は甲斐と駿河の領主となり従二位・権大納言という高位についた。
家光が将軍になったあとも、将軍の弟という立場で忠長は注目された。
秀忠とお江がバックについていたので55万石の大大名でおられた。

しかし事実は小説みたいに無慈悲である。庇護者だった秀忠とお江が死んだとたんに、将軍家光は徳川忠長から甲斐と駿河の領地を没収し上野国高崎城に幽閉した。そして忠長は世をはかなんで自ら命を絶ったことになっている。享年28歳。

徳川忠長は神社の神域で猿狩りをしたり、家臣を手打ちにしたり殺生大納言という悪名がある。どこか殺生関白という悪名の豊臣秀次に似ている。

今のようにネットがない戦国時代、江戸時代には本当の情報は伝わらない。デッチ上げの罪であっても一般大衆に事実を検証するすべがない。

家光としては権力を確立する上で、三代将軍の座を争った弟の存在が目障りだっただろう。しかも忠長が容姿端麗で織田信長のようなタイプの性格だったから、生かしておいてはヤバいと思ったのだろう。
忠長を愛していた秀忠、お江が相次いで死んだことを機に一挙に忠長の政治生命を絶ち、しまいには自害に見せかけて暗殺したのだろう。

豊臣秀吉は一度は甥の豊臣秀次に関白の座を譲った。ところがそのあと淀君が秀頼を生んだ。秀吉はわが子秀頼可愛さに殺生関白の罪状を負わせて秀次を高野山に幽閉し無理やり自害させた。

秀次も忠長もそんなに残虐な人間ではなかったかもしれないが彼らの存在そのものが為政者にとって邪魔になり、悪逆非道な人物という設定で殺されたのだろう、と僕は瞑想しています。

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