中国地方戦国時代歴史

SNSより
西国最大の大名である大内義隆は、勘合貿易を行ってましたが、陶晴賢が謀反でこれを殺して、大内義長(父:大友宗麟)の傀儡政権を樹立しましたが、明王朝は謀反人としてこれを拒絶、勘合貿易は消滅した。陶晴賢は、勘合貿易により大きな富を手にできず計算が狂い家中を統制できず毛利に敗れて滅亡っていうような一説もあります

史実は、陶晴賢(すえはるかた)は大内氏の重臣で実権を握っていた。大内氏が源頼朝だとすれば陶晴賢は北条みたいな存在。

中国地方は島根県の尼子氏と山口県の大内氏が覇権争いをやっていた。
広島の毛利氏は尼子の傘下から大内氏に乗り換え。
尼子が怒って広島県吉田村の毛利本拠地を攻撃した。
毛利元就は大内氏の支援を受けて尼子勢を撃退し大内氏とともに尼子氏の本拠地 島根県広瀬町の富田城を攻めた。
そこで大内毛利連合軍は大敗した。大内氏は尼子氏に負けて衰退。
大内氏の衰退に乗じて重臣陶晴賢が主君を殺して大内氏を乗っ取った。

大内氏の配下になっていた毛利元就は陶晴賢の主君殺しを批判し、陶晴賢に向かって宣戦布告した。
怒った陶晴賢は大内氏の残存勢力率いて毛利征伐に出陣し広島県厳島を征服し陣取った。そこに毛利元就が嵐の海を越え奇襲攻撃をかけて陶晴賢を殺害し、大内氏の残存勢力を滅亡させた。
そして毛利元就は石見銀山の利権を手に入れ中国地方の覇者となった。

陶晴賢は主君を討ったことで信長殺しの明智光秀、足利将軍殺しの松永久秀とともに
日本歴史上の主君殺しの3大名物男になっています。

陶晴賢は、僕の霊視では政治家タイプであって、武将、戦術家タイプではなかった。
大内家の乗っ取りはできても、英傑毛利元就と対等に戦うほどの才覚がなかった。
仮に厳島の戦いで陶晴賢が生きながらえたとして、毛利元就よりさらに強い
織田信長、豊臣秀吉の手で彼は殺されていたでしょう。

尼子氏が滅びた理由は有名です。
毛利元就が「尼子氏最強軍事集団新宮党は毛利家と内通し謀反を企ている」と嘘のプロパガンダを行った。その謀略に尼子当主が惑わされ新宮党を粛清皆殺しにしたのです。
それで尼子氏は軍事的に弱体化して滅亡。

陶晴賢も主要な軍事部門の優秀な部下を毛利元就の謀略に騙され、謀反の恐れありと粛清しています。
それで陶晴賢が実権を握った大内氏は厳島の戦いに敗れ早々と滅亡。
毛利元就はプロパガンダ戦、謀略戦で勝ち抜いて長生きしました。
謀略に翻弄された陶晴賢は35歳の若さで戦死しています。

昔は身内でも殺し合い、敵とも殺し合い。政治とは殺し合いでした。戦国時代だけでなく鎌倉時代も、とにかくどんどん殺していますね。

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