福耳社長の物語

これからお話するのは戦後、裸一貫から地元の有力企業グループを作ったある社長との出会いと別れの物語である。その社長の耳は非常に大きかった。耳の大きい者は金が貯まると言うがまさしくその通りだった。この物語の主人公の名前を、彼の大きな福耳にあやかって福耳社長と呼ぶ事にする。

この物語は、これから時代がバブルに向っていこうとするまさに寸前の頃から始まる…
僕が寝具店の店主の傍ら株をやっていたころ、僕の店に株の話しをしに沢山の人が集まってきたことはすでに述べた。その中に酒屋の店主がいた。酒屋というのは、田舎では資産家がやる商売で、まあまあの顔役で通っているものだ。その店主が僕に会わせたい人がいると言ってきた。僕はこの酒屋の店主に金のありそうな人を紹介してくれるよう、常々頼んでいた。グループで集中投資をしていたので、資金力のある仲間が出来るだけ多く欲しかったのだ。

約束の場所は町内で一番格式のある料亭だった。その料亭は地元の有力者が出入りする料亭で、僕は行ったことがなかった。株でそこそこ儲けていて近隣の市のクラブなどで飲んでいたから、金の面ではどんな飲み代でも払えたのだが、格式というものだけは、どうしようもない。

県知事や国会議員が来た時に接待に使う料亭には、「俺は金を持ってるぞ」と空威張りしても入れるものではない。多分「あいにく予約でいっぱいでして…またのお越しをお待ちいたしております」と、ていよく追い払われるのが落ちだ。無名の小商人が小銭を稼いだからといって、格式だけはいたしかたない。門前払いされるのが嫌で、最初から僕はその料亭には近づかなかった。

その夜は、酒屋の店主の取り持ちで初めてくだんの料亭の門をくぐった。女将が「いらしゃいませ。皆様、もうお揃いでお待ちです」と緊張している僕を丁重に迎えてくれた。二階に案内されて襖を開けると、そこには地元町長と地元選出県議とこの物語の主人公である福耳社長の3人が勢揃いしていた。

地元を牛耳っている実力者3人を前にして単なる無名の小商人で歳も若い僕は身が引き締まる思いがした。
宴席には、僕ら二人分の料理もお膳で用意されていた。普通お客として招かれる時は上座に席が用意してあるものだが、僕と酒屋の店主は下座にお膳がしつらえてあった。それも当然のことで、地元でこの3人より上座に座れる者は、元大地主で旧村時代に代々村長をつとめてきた家柄出身の農協の組合長しかいない。

この宴席では、もちろんワンマンで鳴らした町長が上座の中央に陣取って座っていた。
「噂の清春君を連れてきました。この男は非常に株に詳しいのです。ひとつこの男の話を聞いてやってください」
紹介役の酒屋の店主が前口上を述べた
「まあ、固いことは抜きだ。しらふは座が白けていかん。まず一杯飲んでからにしろよ」
3人の実力者はすでに飲み始めており、一番酔っていた県会議員が、酒屋の店主の紹介に引き続いて挨拶しようとする僕を遮った。
「株だか大根だか知らないが、だいいち、そんな話しにゃ興味がないよ。女将、酒だ酒だ!」

出鼻をくじかれて、僕は自分の席に座って、女将から酒をついでもらい小さくなって飲んでいた。ここで福耳社長が助け舟を出してくれた。
「折角、話しをしに来てくれたんだから、この若い衆の話しを聞いてあげようでないの…」

地元で立志伝中の人物と言われる福耳社長の鶴の一声で、酩酊していた県会議員が黙った。
福耳社長は有名人で僕は知っていたが、社長は僕のような小商人は知らなかった。しかし、社長は出番がなく黙って杯を重ねている僕に出番をつくってくれた。裸一貫から伸し上がる人物というものは、やはり気配りが違う……
                   
「本日はこういう席に呼んでいただきありがとうございます。実はこれから株で儲けるにはどうすればよいかと言うことをお話したくて参上いたしました。いま金融緩和による過剰流動性で都会の土地は猛烈に上がっています。ところが都会に土地を持っている会社の株はまだ上がっておりません。
株は所有権を表すものですから、都会で土地を持っている小型株で株価の安いものは、業績に関係なく暴騰すると考えます。千載一遇のチャンスです。

具体的に銘柄を申し上げますと東京2部に大平製紙という無名の会社があります。株価は200円台です。東京北区に28000㎡の工場を持っています。ここの近くに埼京線という新しい鉄道路線が開通します。そして浮間駅という新駅も出来ます。埼京線はゆくゆくは新宿駅につながりますから、大平製紙のこの工場の敷地の値段は跳ねあがるでしょう。それが株価に反映されて必ずこの株は暴騰するでしょう。いまのうちに仕込んでおかれませんか?」

僕は張り切って、とうとうと煽り演説をぶった。町長がにやにや笑っていた。町長は株好き町長で、役場の町長室に株式の短波放送を流しながら執務をしているくらいの通だった。
「大平製紙?聞いたことないな。株の話をするなら、もっとまとも銘柄をもってこいよ。 
 証券会社からはエレクトロニクスとバイオがこれからの主流と言われているんだ。俺は松下、ソニーあたりをやっている。バイオでは協和発酵だな。君ももっとまともな株をやれよ。だいいち永らく相場をやって俺ほどの歳になっても相場はいまだ分からないんだ。君のような若造に相場の先行きが分かるもんか!偉そうなことを言うなよ」

僕はまた鼻をへし折られた。町長からは相手にされないし、県会議員は相変わらず酩酊状態でまともに僕の話を聞いていなくて「株だ大根だ、赤株だ青株だ、一番美味いのはどっちかな?」と小馬鹿にしたような合いの手を入れてくる始末だ。

ところが、福耳社長だけは違っていた。大きな耳を広げて、うむうむと首を縦に振りながら聞き入ってくれていた。そして大声で言った。
「俺は違うな。これは面白い話だ。俺はこの男の話に乗ってみることに決めた!」

町長は僕に説教した手前、面目を失って憮然とした。県会議員がまた黙り込んだ。福耳社長は政治的には役職はなかったが政治資金や社員の集票力で隠然たる力をもっており、そういう意味では町長も県会議員も福耳社長には頭があがらない面があったのだ。僕と酒屋の店主は、してやったりと顔を見合わせ声を殺して笑った。

福耳社長には学歴はなかった。戦後、宍道湖の護岸堰堤が作られたとき土建会社を友人と作り、自らトロッコを押して土方仕事をしていたことは有名な話だ。同じような境遇から土建屋をスタートさせた人が数多くあるのに、どうして福耳社長だけが、ずば抜けて大きな企業グループになったのか僕には非常に興味があった。

福耳社長の系列にはコンクリート製品製造会社、測量会社、燃料会社などがあり、グループ従業員は400人とも500人とも言われていた。料亭での出会いから親しくつきあわせていただき、彼がどうして出世したのかを探ろうした。いろいろ思い当たる節があったが、結局、強運の持ち主だという点が大きかったのではないかと思う。耳が福耳だったことが強運と関係あるかもしれない。

ちなみに筆者も耳が大きい。相場に関していえば強運だと思っている。強運の持ち主と付き合うと運がわけてもらえる。運のない人とつきあうと運勢が悪くなる。そこのところは気をつけておいたほうがいい。

さっそく福耳社長のお宅に伺い、大平製紙の注文を出してくれるように頼んだ。
「まず手始めに10万株ほど仕込んでください」
10万株とふっかければ、2~3万株の注文がもらえるものだ。悪くても1万株の注文はもらえる。1万株なんてケチなことをいうと自信がないのかの足元を見られる。
「うん、わかった。個人と会社で買おう」と太っ腹の答えが返ってきた。
「買い場は僕に任せてもらえませんか。一発で買うと2部株は値が飛んで高く買う羽目になります」

福耳社長は飲み込みが早い。すぐに取引先の大手証券会社に電話をかけはじめた。
「これからの注文は代理人として清春君が出す。彼の注文は俺の注文だ。決済は責任もって俺がやる」
今はこういうことはうるさいが、当時はあまり問題にならなかった。こういうやり方でないと、僕の思い通りに相場が戦えない。僕はこういう任され的な人を沢山もっていたから、相場つくりがやり易かった。

この物語は大平製紙物語ではないので、この株での戦いの経過は割愛する。強運の福耳社長の参戦があり、200円だった株価は2000円を越した。
この初戦の勝利で僕は社長の信頼を勝ち取った。例の株好き町長も大平製紙の大化けにビックリして、「今度はなにをやるんだい?」と僕の家にやってきた。若造に何がわかる!と言っていたことなんか、ちっとも気にかけず、一変した態度に、政治をやる者の図太さと変わり身の早さを見た。

いろんな銘柄を次々に手掛けたが、福耳社長をかますと不思議によく上がった。強運の人とはそういうものだ。逆にある人に買わすと必ず下がるというジンクスもあった。運勢のない人という存在もこの世にはあるものだ。
福耳社長は上機嫌で「うちのグループのどの社員より君が金を稼いでくれる」と僕を持ちあげてくれた。その言葉がオヤジに誉められたときのようにうれしかった。僕は若くして両親を失い天蓋孤独のみなしごハッチの境遇だったからだ。

こうして年月が経った。連戦連勝で僕も福耳社長も儲かっていた。社長と飲むときは、いつも社長の奢りだった。畏れ多くて僕が金を払うわけにはいかなかった。しかしある夜、僕の設営で僕の行きつけの料亭に社長を呼んで接待した。そこはスナックも併営していてそこの若いママが酒井法子にそっくり、田舎にはもったいないほどチャーミングな女性だった。

ノリピーファンの僕は毎晩せっせと通っていた。その上に、この料亭の女将も顔立ちが整い愛嬌のいい女で、僕が行くと口移しでビールを飲ませてくれた。
バブルの頃はそういうのが流行っていたのか、あちこちでそういうサービスを受けていた。

その夜は、料亭の女将は福耳社長が来てくれると聞いて大張りきりだった。福耳社長の気に入られたら、グループ企業の社長や幹部も来るようになるからだ。スナックの酒井法子似の若いママに和服を着せて、専属の接待役にさせるくらいの気の使いようだった。実は福耳社長にある提案をしようと思ってこういうサービスの行き届いた宴席を設けたのだった。

「なかなかいい店じゃないか。お前さんもすみに置けないね」
福耳社長は機嫌よく酒を飲み始めた。社長の両側にくだんの美人を配して舞台装置は万全だった。
「社長、今日は面白い提案をしたくてお呼びしました。今のやり方みたいに、ただ次から 次へと銘柄を渡り歩くのもいいですが、そろそろ男のロマンを賭けた大きなプロジェクトをやってみませんか?」

「そうかい?儲かっているから、このままでいいんじゃないの。ところで何だい?その大 きなプロジェクトと言うのは?」    
「ずばり僕は社長を田舎の社長で終わらせるのではなく、上場会社の社長にしたいのです」
「へぇ~。俺が上場会社の社長ねぇ。俺はそんなだいそれたことは考えてみたこともなかった。俺はね、百姓のせがれで、本来、隣保班長になるくらいが関の山の男なんだわさ」

事実、福耳社長は、社長と呼ばれると、俺はそんな社長と呼ばれるほどの男じゃない、隣保班長でいどの人間だ、といって自分のことを隣保班長と呼ばせていた。僕と違って決して思い上がることのない人だった。反応の鈍い社長にさらに僕はたたみかけた。

「大阪2部に粟村製作所という200円台の株があります。発行株1270万株。仕事はポンプを製造しています。オーナー社長である井上社長の持ち株はわずか49万株です。
それで個人筆頭株主です。浮動株が42%もありいくらでも株集めが出来ます。ポンプは、これから地方の下水道事業の進展で伸びる業界です。しかも工場は鳥取県米子市にあり、買い占めて社長になられても、眼が行き届きます」

社長は、即答しなかった。だが僕の話を黙って聞いていた。脈があると僕は感じていた。福耳社長はしばし考え込んでいたが、やおら話題を和服の若いママのほうにそらした。
「こんないい娘が、地元にいるとは知らなかったねぇ。お前さんはこの方面でもなかなかの情報通なんだなぁ。それでこの娘とはどこまで行ってるんだ?ははははははは」    
それからあとは、固い話抜きで多いに飲んで騒いだ。社長は無類の酒豪だったのだ。

その翌日から、僕は粟村製作所を200円台でこつこつ仕込み始めた。いつものように酒屋の主人が店に遊びに来た。僕のそばに一日中つきっきりで僕の出す注文に聞き耳を立てているのだ。酒屋の店主は粟村製作所という名前を嗅ぎ出し、自分もこつこつ仕込み始めた。値段がじりじり上がり300円を突破した。

福耳社長からはなぜか買いのGOサインが出なかったが、どんどん買い注文が入ってきて、間もなく400円を軽く突破して、あっと言うまに株価倍増だった。
酒屋の店主から、接待のお誘いがあった。仕込んだ粟村を400円越えてから買い注文に次々ぶつけて売り抜けて短期間に儲けたと自慢していた。ご馳走になっていても、あまりいい気持ちがしなっかった。もっと壮大なプロジェクトを考えているのに酒屋の店主は目先の儲けで大喜びしている。ロマンのない人だと思った。株をやる人にはこういう人が多い。

せこく立ちまわって小さな利益に安住しようとするのだ。
はどなく、福耳社長から呼び出しがかかった。福耳社長は珍しく機嫌が悪かった。
「お前さんは俺を嵌めようとしたな?そういう汚い真似をする奴とは思わなかった…以後、お前さんとの付き合いは無しにする!」
僕は目をぱちくりさせていた。一体何のことだろう。僕は怒る福耳社長をただ呆然と見つめていた……。

福耳社長は粟村製作所買い占めを真剣に考えていたようだ。だから僕にも本心を明かさず株を買い集め始めていたのである。値ざや稼ぎではないから指南役の僕にさえ隠密に事を運んでいたのだ。福耳社長は、同業の社長連中にこのプロジェクトを打ち明け連合で買い始めていたのだった。敵を欺くには、まず味方を欺けのことわざ通りで、僕には粟村製作所を買うとは一言も漏らさなかった。提案者の僕に対して冷たい仕打ちだが、大事を行うときにはそれくらいの細心さが必要だ。裸一貫で伸し上がった男の真骨頂を見た。

そういうこともあろうかと、僕は僕のグループに粟村製作所の買い指令を出していた。スローガンは「濡れ手で粟村製作所!」だった。いろんなキャッチコピーを作ってきたがこの「濡れ手で粟村製作所」が一番の出来で、これ以上のスローガンはいまだに作れない。
福耳社長は僕のグループが買い集める株数も当てにしていたのだが、酒屋の店主のように株価倍増で気を良くして、売り抜けるものが多数いた。

福耳社長も抜かりの無い人で、手口を取ってどの証券会社から売りが出るのか調べていた。400円越えから、地元の中堅証券会社からの売りが出てくることで、僕と僕の仲間が、先回りして仕込んだ株を福耳社長の買いにぶつけて売って儲けていると激怒したのだ。

「社長、僕はそんな人間じゃありません。社長とともに粟村製作所を買い占めて男の花道を歩きたいのです。100円幅や200円幅で利食うほど金に困ってはおりません!」
僕もムッとして反論した。事実僕は粟村製作所を売ってはいなかった。
僕にもロマンがあった。ゆくゆくは上場会社の役員になって上場会社の資金運用者になるんだという夢があった。一生を零細小売店の店主で終える気はなかった。

「分かったよ。お前さんは売っていないようだ。しかしあの酒屋の店主は売ったな。あいつは、あそこまでの人間だな…」
温和な福耳社長の眼が鋭く光った。やはり伸し上がる人物と言うものは、謙虚さだけではない。ここぞというときは鬼のような底知れぬ怖さを感じさせるものなのだ。

結局、粟村製作所は1000円まで上がった。僕は粟村相場では陣頭指揮をとらなかったので詳しい経緯はわからない。ただ不幸だったのはバブル崩壊の波が押し寄せ、あらゆる株が暴落を開始し、もう買い占めどころの騒ぎではなくなったことだ。あらゆる株が半値、3分の1へとあっというまに暴落して行った。誰もが持ち株の値下がりの対応に追われ、粟村製作所買い占めのロマンなど語っている場合ではなかった。

それでも強運の福耳社長のことだから、なんとか持ち株を処分して無事に撤退したのではないかと推測している。粟村製作所は1000円をつけたあと下がる一方でその一年後には300円台と行って来い状態になった。僕はこの株では儲けよりロマンにかけていたから、結局儲けて売り抜けることなく、損をしない程度で撤退する事になった。

福耳社長はこの頃から、体調を崩し始めた。出会ったころはまだ50才台半ばで、元気な人だったが、バブル崩壊と軌を一にして痩せて元気をなくし入退院を繰り返すようになった。まだ60才台前半だから老衰する歳でもない。裸一貫で伸し上がるためには人の何倍も身体を酷使していたのかもしれない。あるいはひょっとして「プロジェクト粟村」で見果てぬ夢を見てしまい、張り詰めていたものが無くなっててしまったのかもしれない
                   
平成3年、30才台ももうすぐ終わろうとするとき、僕は政治への転進をはかり地方議会議員に立候補当選した。バブル崩壊といっても、僕にはまだ幾許かの余力があった。経済音痴の多い政治の世界に新風を吹き込んでやれという思いが根底にあったのと、政治的背景がないといざと言う時、相場に生きる者は国家権力から極道、博徒のような扱いを受けると言うことを身を以って痛感させられたからである。

福耳社長は「君のようにはっきり物のいえる人物が議会にいることは良い事だ」と喜んでくれた。そして当選した後、韓国へ一緒に行こうと誘ってくれた。福耳社長の体調は相変わらずすぐれず、海外旅行をしている場合ではないように思われたが、せっかくのお誘いなのでお伴をすることにした。

余談だがソウルへは僕の町にある空港からチャーター便が飛ぶ。一時間もあればソウルへ行けし、プサンなら30分後には市街上空に達する。しかも僕の家から空港まで10分しかかからない。プサンへ行ったときは朝ご飯をプサンのホテルで食べて、午前中にみやげ物屋でキムチを買って、一時間あまり後には我が家について昼飯はそのキムチを女房と賞味するという具合だった。

チャーター機の旅行者は身元がはっきりしているので、空港の税関も荷物検査が簡単に終わる。さっきまでプサンにいて、つぎの瞬間には自宅にいるような便利さではとてもじゃないが海外旅行という気分にはなれない。少なくとも東京よりは韓国がはるかに近い。昔は成田や、福岡からソウルへ行ったから、異国情緒があり、すっかり嵌ってしまい何度も行ったが、この頃では近過ぎて行く気になれない。

「社長、ソウルの宴席も僕に設営させてもらえますか?」
「お前さんはソウルの料亭まで開拓しているのかい?」社長はうれしそうに言った。
僕は日韓親善協会の役員にソウルで一番高級な料亭を紹介してくれと頼んだ。
そして韓国の国会議員や日本の国会議員が利用しているという大苑閣という一流料亭を紹介してもらった。議員のバッチにはこういう使い方もある。
ソウルの大苑閣は確かに素晴らしかった。宴席は一戸建てになっていて、周りは庭園に囲まれていた。人工の滝などもしつらえてあった。料亭の女将は女優のように綺麗で、もちろん妓生も若くて美人ぞろいだった。

「社長、こうして飲んでいると、これまでのいろいろな宴席を思い出しますね…・・」
社長はうんうんとうなずいていた。気に入った妓生は連れ出してもいいのだか、福耳社長の体調では、そういうわけにはいかない。まことに気品のある風流な宴であった。

「清春君、お前さんにこれを上げるよ。俺との旅行の記念にしてくれ」
渡されたものは、ソウル訪問記念のメダルだった。日本の観光地でも良く見かけるやつだ。
「福耳から清春に」、とローマ字で打刻してあった。こんなおもちゃみたいなメダルをくれるなんて、なんて子供じみたことをするのだろう。さすが隣保班長だ。やることが田舎のオヤジそのものだ…でもそういう子供じみたやさしさがなぜかジーンと胸を打つ。

このあどけない子供のような茶目っ気が福耳社長を一介の土方のオヤジからここまでに押し上げる原動力だったのだと、僕はこのとき雷に打たれたように悟ったのである。
「ありがとうございます。福耳社長との数々の思い出の記念として大切にします!」

これが、福耳社長の最後の海外旅行となった。社長はその後、ガリガリに痩せて、60才半ばの若さでこの世を去った。福耳社長は死期が迫って痩せ細り指など骨のようになっていても、震える手で酒を飲んでいた。最後の最後まで人生を堪能しようとしていた。そして痩せてゆくにつれ、その大きな耳が一層大きく見えていた。

葬儀のとき、こんな素晴らしい人にはもう一生出会えないなと思い涙が溢れた。実際、福耳社長以上の人にそれ以降出会ったことがない。
福耳社長が清春の名前を打刻してくれたソウル訪問記念のあのメダルを取り出して見るたびに、バブル時代の感動と興奮に満ちた日々が走馬灯のように浮かんで来る。

社長は旅行の記念だよと言っていたが、このメダルは僕にとってバブル時代の人生の記念メダルだ。たとえどんな立派な勲章をこの先万が一いただくことがあろうとも、福耳社長がくれたこのみやげ物の記念メダル以上の価値があるなんて、僕は決して思いはしないだろう…

                     福耳社長の物語 完

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