親日南京政府・汪兆銘主席の妻の義侠心

汪兆銘は日本の敗戦を見る事なく1944年に名古屋の病院で死亡。
そのとき親日南京政権は存在していたので、汪兆銘は中華民国国家主席として、戦時なので準国葬を行って南京郊外に葬られた。後世、墓を暴かれないように汪兆銘の棺はぶ厚いコンクリートで覆われた。

1年後、1945年8月、日本が戦争に負けて、親日の南京国民党政権が瓦解。

抗日重慶政権が南京に進出した。重慶政府の主席は蒋介石だった。
蒋介石は元は汪兆銘の部下だった。汪兆銘の妻の陳 璧君は、蒋介石を引き立て、夫の汪兆銘に陸軍学校の校長に蒋介石を推挙した。

汪兆銘は辛亥革命の孫文の愛弟子であって、国民党の本流だった。
蒋介石とは格が違っていた。蒋介石のその後の出世の糸口は汪兆銘の妻の口利きだったのである。

国民党は抗日の蒋介石派と親日の王兆民派に分かれ、蒋介石は重慶に政府を作り、汪兆銘は南京に政府を作った。

日本が対米戦争に負けると同時に南京政府は滅亡。
汪兆銘の後継者だった陳公博は日本に逃れるものの、南京に連れ戻されて国家反逆罪で銃殺された。

南京政府の創始者だった汪兆銘はすでに死んでいたので、その妻である陳 璧君が重慶政府官憲に逮捕監禁された。

蒋介石は若い頃に自分を引き立ててくれた陳 璧君を殺すに忍びないと思った。
そこで
「夫の汪兆銘は日本に騙され日本に協力した愚か者だったと供述しないさい。
あなた自身も日本に騙されたと言いなさい。そうすれば獄中から出られるように配慮する」
と伝えた。

しかし、陳 璧君は夫である汪兆銘をそしり、反省文を書く気はなかった。
汪兆銘は風貌が紳士的、美男子であり、陳 璧君は汪兆銘に惚れていた。

自分が生き延びるために、夫を批判し、反省文を書く気はない。
夫を批判するくらいなら、私は死を選ぶとキッパリ言った。

「蒋介石はアメリカと組んで勝組になった。
 毛沢東はソ連と組んで中国を支配しようとしている。
 夫の汪兆銘は日本と組んだ。それだけのことです。
 三者に一体何の違いがあると言うのか?」

そう言い残して、陳 璧君は獄中死した。

蒋介石は南京郊外にあった厚いコンクリートで覆われた汪兆銘の墓を大量の爆薬を使って破壊した。棺から汪兆銘の遺体は引っ張り出され焼かれ、遺灰は原野に廃棄された。

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