細川幽斎が豊臣秀吉に仕えていたときの逸話が地方新聞の小説「筆と槍」に書いてあった。
和歌の会を豊臣秀吉主催でやったとき、豊臣秀吉が蛍が鳴くという内容の和歌を発表した。
諸将は秀吉の歌を聞いて表立っては異議を唱えなかったが
「蛍が鳴くはずがないわな~」と心の中で皆が笑っていた。
そのとき細川幽斎の行動は違っていた。即座に秀吉を褒めたたえた。
「上様、さすがでございます。古典の中にも蛍が鳴くことを題材にした
良き歌がございます。よくぞ前例をお知りであらせられる。感服いたしました」
当代随一の教養人で、勅撰和歌集である古今和歌集の解釈を
伝授している細川幽斎の発言である。諸将は「そうなのか!蛍は鳴くのか!」と己の無知無学を恥、豊臣秀吉の教養に驚嘆した。
実は、古今和歌集にも蛍が鳴く歌などない。どの古典を探しても蛍の鳴く様子を歌った作品はない。しかし、細川幽斎は機転を利かせて、あえて嘘を言って豊臣秀吉の権威を高めたのであった。
そのくらい機転を利かす男だったから、時々の権力者に好かれて細川幽斎は常に引き立てられた。
細川幽斎は足利幕府最後の将軍、15代足利義昭の擁立に尽力し将軍の側近となった。後に義昭が信長に敵対して京都を追われると、要領よく信長に従って丹後国宮津11万石の大名となった。
信長の重臣明智光秀の勢いが良い時は、明智光秀の娘を息子忠興の嫁に娶った。
明智光秀が本能寺の変を起こすと、親戚関係の明智光秀に見切り千両、
息子に明智光秀の娘(たま)と離縁させ、豊臣秀吉に接近し秀吉に信頼された。
細川忠興と離縁され刺殺された たま(細川ガラシャ)の辞世の句
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
秀吉が死ぬと豊臣秀頼に見切り千両、関ケ原の戦いでは
石田三成の誘いを断り、徳川方について奮戦した。これにより
徳川家から信頼され細川家は後に肥後細川家54万石の大大名となった。
数々の英傑が使えるべきあるじを間違えて滅んでいった戦国時代に
細川幽斎は機転を利かせ足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と
その時々の天下人のもとで重臣でありつづけた。天下人のために
鳴かぬ蛍でも鳴かせて見せた細川幽斎の生きざま、機転に感心します。
散りぬべき 時を知ろうとせず、幕末まで細川家は永続しました。
明治維新の戊辰戦争では細川家は天下の名城、熊本城を官軍に明け渡し、徳川家のために戦ってはいません。世渡りがうまい。
本気で戦えば西郷隆盛が攻めても、熊本城は決して落ちない堅城でした。
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