兜町絡みで半生を生きた古老の懐古談

僕が山一証券に入社した頃は、まだクイックもありませんでした。
電光株価ボードもありませんでした。

証券会社支店では、株価を知るため、短波ラジオ放送を流していました。
短波放送が流す各銘柄の株価を「黒板書き」が支店の中央に置かれた
大きな黒板にチョークで書いていました。それを見て個別株価の
刻々の動きを知ったのでございます。アナログの最たるものでした。

黒板書きはアルバイト学生2人がやっていました。
黒板は髙い場所に掲げてあったから、黒板書きは高台に乗って
株価をチョークで書いていました。

僕は大卒営業マンでしたが、新人の時は黒板書きのアルバイト学生が
急に休んだ日には僕は黒板書きを代行でやらされていました。

商いの多い銘柄は短波放送が繰り返し株価を言うので
その銘柄は株価の数字を沢山書きます。株価が書かれる頻度で
旬な人気株が分かるという仕掛けでした。まっこと古風な話です。

昔は証券会社の社員の半分は高卒でした。僕の同僚は長野県の
高校を卒業して山一証券に入社していました。彼は僕より4年前に
高卒で入社し、4年間、兜町の取引所で場立ちをやったのち
自ら志願して営業マンに転じたのです。彼からは片手で1から10までの
数字を表現するやり方を教えてもらいました。
彼は古巣の兜町の取引所に僕を連れて行ってくれました。
取引所の場立ち仲間の間で彼は顔役でしたよ。当時、山一は大手でしたから。

コンピューターなどない時代で、大きな体育館みたいな場所で
大勢の若者が押し合いへし合いをして株券(注文札)の争奪戦をやっていて壮観でしたよ。
場立ちなんてものは若くて体力がないと出来ない商売でっせ!

場立ち出身の彼は眉目秀麗、性格も良い好青年でした。
場立ち出身なので株の売買には自信があって営業マンを志願したのでしょう。

しかし事実は小説より奇なり。証券会社の営業マンは単にお客の注文で
株の相場を張るだけではないのです。
投信販売、国債販売、割引債販売、電力社債販売などなど、
ありとあらゆる商品の販売のノルマが課せられ、代金払い込みの
締切日が次々やってきます。ノルマが達成出来ないと怒鳴られまくり。

長野県の田舎から上京してきて、帝都東京に知り合いがいるわけでもない。
営業マンに転じてから数年後、彼はノルマ地獄の日々に辟易した。
辞表を書いて長野県の村に帰郷した。村の役場に勤めたか、
あるいは農協職員になったとおぼろげに記憶しています。
それから数年後・・・彼は若くして亡くなったと風の便りで聞きました。南無 合掌礼拝。

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