狩野永徳の美のライバル長谷川等伯

安土桃山時代の絵師として狩野永徳は皆が知っている。あなたも知っているはずだ。
僕も義務教育の歴史の教科書で狩野永徳と言う名前を覚えた。
しかし狩野永徳のライバルだった長谷川等伯と言う絵師の名前は知らないだろう。

狩野永徳は織田信長、豊臣秀吉という天下人に仕え、安土城、聚楽第、大坂城において極彩色の豪華な壁画を制作した。
残念ながら狩野永徳が力を振るったこれらの代表的な作品は建物とともに焼け落ちて、失われた作品が多い。

一流画家というものは洋の東西を問わず時の権力者と共にある。
狩野派全盛期に狩野永徳に蟷螂之斧で立ち向かった絵師がした。
それが長谷川等伯だ。京都生まれの都会人狩野永徳と違って長谷川等伯は能登の国七尾の田舎絵師だった。

しかし長谷川等伯は敢て上洛し、鬼才を以って狩野派を脅かした。
狩野永徳は売れっ子過ぎて48歳の若さで過労死してしまった。
ライバルの早死というツキと実力で長谷川等伯は台頭できたのだ。

狩野永徳亡きあと、豊臣秀吉は長谷川等伯に絵を頼むようになった。
秀吉と淀君の間に生まれた長男鶴松(次男は秀頼)が夭折したとき、鶴松を祀る寺が建立された。
その寺の壁画を豊臣秀吉は長谷川等伯に依頼したのである。
それ以降は長谷川派は狩野派を凌ぐ勢いになった。

豊臣秀吉が亡くなったあと、徳川家康は芸術の世界においても徳川家の権威を天下に示すために長谷川等伯を江戸に招聘した。
すでに70歳を過ぎていた長谷川等伯は江戸への長旅でくたびれて江戸に着いた2日後に病死した。享年72歳だった。南無妙法蓮華経。

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