最後に島の最南端の崖に案内してもらった。
1944年(昭和19年)7月24日、アメリカ軍は島の北部に上陸し、日本軍を南部に追い詰めていった。
日本軍は陸海軍8千名で島を守っていたが、攻撃側の米軍は5万4千人の大軍で攻めてきた。
たった10日間の戦いで日本軍は全滅状態。
テニアン島の日本軍は満州の関東軍がやったみたいに日本人住民の男たち16歳~45歳を臨時に徴集して兵隊に仕立てた。その数3500名。
彼らは「義勇隊」と名付けられて、自殺行為のような斬り込み突撃をやらされている。
「南の島で楽園暮らし」のスローガンに魅せられてテニアン島に渡り、密林を開拓し、畑に変えた沖縄県民を主体とする民間人は意図せずに老いも若きも義勇兵に仕立てあげられて死んでいったのだ。
満州でも満蒙開拓の夢を持って大陸に渡った民間人の中年男性たちが終戦間際に臨時徴収されて日本軍の兵隊としてシベリア連れて行かれた。正規軍の兵隊さん以上に悲劇だ。
テニアン島の南端もサイパン島のバンザイクリフみたいな崖になっていた。
この崖一帯で追い詰められた日本軍兵士は玉砕した。
民間人義勇隊も記録はないが同じ運命だったことだろう。
島の南端の崖を臨む場所に数多くの慰霊碑が建てられていた。
サイパン、テニアン防衛のための兵隊は、大本営が満州の関東軍を転進させた。
関東軍の松本(長野県)連隊が両島の防衛にあたり玉砕した関係で、長野県関係の慰霊碑が多い。
テニアン島開拓は気候が似ているため沖縄県民が移住して行っていた。
そのために多くの沖縄県出身民間人が義勇隊として戦っている。頭の下がる思いです。
多くの慰霊碑の中で特に沖縄県民を慰霊する碑がとても立派だった。
沖縄出身者のための慰霊行事のとき、参列者が座れるようコンクリート製の階段状になった座席も完備していた。
だが、この聖地には人っ子一人いなかった。虚しく慰霊碑が林立しているだけだった。
サイパン島のバンザイクリフの慰霊碑の前にも日本人はおらず、中国人と韓国人の観光客だらけだったが、テニアン島のバンザイクリフには中国人、韓国人観光客さえもいなかった。
僕はたった一人でテニアン島最南端の切り立った崖に立ち、南太平洋の青い海に向かって手を合わせ戦死された皆様の霊を弔った。
台風18号の風に吹かれながら「トラスト聖戦とC&G聖戦では必ず勝ってみせるぞ」と心に固く誓った。
テニアン島訪問記 完


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