山鹿流陣太鼓と山鹿素行と武田観柳斎

山鹿素行は江戸時代初期の軍学者でありんす。山鹿流兵法の教祖です。

山鹿流陣太鼓で山鹿流兵法は有名になったが、赤穂義士が山鹿流陣太鼓で吉良の首を獲った話は歌舞伎用の創作だという説もありんす。

山鹿流兵法の源流は、戦って負けなし、戦さの神様と言われた
武田信玄の兵法を伝えた甲州流兵法だったと知って隠岐魔性!!!
山鹿素行は甲州流兵法を学び、そこから自説を創造展開したのでありんす。

甲州流兵法は出雲国に伝わった。そこに無名の男の哀しいドラマがありんす。
出雲国母里藩の医者であった武田観柳斎は、甲州流兵法に通じていた。
武田観柳斎は片田舎に埋もれたくない!幕末の動乱に乗じて天下に名を残したい!と瞑想した。
彼の気持ちは日本のチベットと言われる出雲国に住む僕には痛いほどよく分かります。

武田観柳斎は出雲国の山中の小藩だった母里藩(松平家松江藩の分家)1万石を脱して京の都に上った。そして当時一世を風靡していた新選組に参加した。

日本刀で戦う新選組に於いては武田観柳斎の甲州流兵法の知識は重宝され、彼が新選組の軍師として羽振りを利かしていた時期もある。

武田の特技は他に、弁舌巧みなところである。俺と似ているわな。
新選組局長の近藤勇に取り入るためにおべっかをつかい、媚びへつらうことが多かった。
この出雲国の田舎者である武田観柳斎を嫌っていた関東出自の隊士も多かったようです。

やがて、徳川幕府がフランス軍と連携したために新選組もフランス式の洋式の調練が始まった。戦国時代の武田信玄の戦い方を講釈していた武田観柳斎は隊の中で存在価値がなくなった。涙。

居場所がなくなった武田観柳斎は近藤勇と袂を分ちていた
伊東甲子太郎の方へ身を寄せようとした。しかし伊東に拒絶されてしまう。

次に武田観柳斎は薩摩藩に取り入ろうと奔走し出す。これは完全な佐幕新選組への裏切りであった。これを知った近藤勇と土方歳三は、武田観柳斎の粛清を決意した。身の危険を感じた武田観柳斎は、故郷の出雲国に帰って地味に田舎者として生を永らえようとした。

しかし出雲国への逃亡の途中、竹田街道銭取橋で、新選組屈指の剣豪、沖田総司並みの剣の腕だった斎藤一の手にかかって斬殺された。
まっこと哀れな武田観柳斎の人生でした。涙。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏 合掌礼拝

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