帝国は終戦前には複葉機「赤とんぼ練習機」を特攻機に改造!

今日、終戦前の1945年7月に実用化された海軍大社基地飛行場跡地を見学した。

10年位前までは国有地として戦争中のままの姿で残っていたが、近年、民間業者に払下げられ住宅分譲地になっている。
60メートル幅、長さ1500メートルの滑走路だった。
大社基地飛行場が稼働すると同時に四国沖に展開していたアメリカ空母艦隊から戦闘機多数が飛び立ち、広島市を爆撃せずに、広島県を跨いで島根県の我が町に殺到、出来たばかりに飛行場とその周辺を
所かまわず機銃掃射した。たまたま走っていた蒸気機関車に乗っていた乗客たちは米軍戦闘機の機関砲でブチ抜かれ虐殺された。
飛行場にいた兵隊さんも殺された。

1945年7月に四国沖の空母から飛び立ったアメリカ戦闘機隊が、広島上空を飛びながら広島市は襲わず、市街をそのまま温存し、片田舎の島根県斐川町を爆撃、銃撃したことに妙に違和感を覚える。
つまり、広島市には翌月の1945年8月に原爆を落とすことが内定していたため、あえて広島市上空を素通りしてド田舎島根県斐川町大社基地を襲撃したということなのでしょうね。アメリカ軍は恐いですよ。

大社基地には双発の海軍機・銀河40機が配置されていたと今日、歴史家の先生が説明した。
終戦間際に双発の大型航空機が山陰の片田舎に40機も残っていたとはにわかに信じがたい。そんな余力が日本海軍にあったのだろうか?

大社基地から1キロ離れた場所に、もう一つ600メートルの滑走路が作られていた。
大社基地はコンクリート製の滑走路だが、もう一つは泥の滑走路だった。
それで終戦後にすぐに畑に戻された。

今日解説の郷土歴史家が語るには
「600メートルの滑走路は赤とんぼ練習機特攻隊がアメリカ軍が 山陰海岸に上陸するときにアメリカの戦艦に向かって夜間特攻するため作られた」
とのこと。

菊水作戦白菊特攻隊までは理解できるが、複葉機の赤とんぼ練習機で
アメリカの戦艦に体当たり特攻なんて可能だろうか?
布と木で作られた複葉機でアメリカ戦艦に体当たりなんて
狂気の沙汰であり、それは無理筋だと思った。

しかし、現実に赤とんぼ練習機特攻隊用の飛行場が我が家の近所に
作られたのであった。日本軍は本土決戦を赤とんぼ特攻機でやる気だった。
これには新鮮な驚きがあった。

ネットで調べてみたら、ゼロ戦などをすべて特攻で失くしたあと白菊練習機が特攻作戦に使われた。菊水作戦白菊特攻隊である。
いちおう白菊は単葉機で戦闘機の恰好をしている。

それに比べ、赤とんぼ練習機は複葉で布と木で作られていたオールドファッションの飛行機だ。スピードも遅い。
複葉機に乗せられて特攻に飛び立つ搭乗員はたまったものではない。

軍部でも「赤とんぼで特攻させるのは惨いわな」と反対論があったそうだ。
しかし、軍幹部は実際に沖縄戦の最後の頃には複葉機の赤とんぼを無理やりアメリカ軍艦に向かって突入させた!!そのとき奇跡が起きた!!

布と木で出来上がっている旧式な複葉機に、アメリカ軍のレーダーが作動しなかった。
対空砲火も高性能VT信管が反応しないので効果が無かった。
それで古風な複葉機がアメリカ海軍の駆逐艦体当たりに成功し、撃沈したのであった。レーダーで探知される金属性の新鋭機の特攻より、布の木で作られていた赤とんぼ練習機の特攻のほうが戦果が上がったのである。

敗戦前に本土にはまだ4450機の複葉機が残っていた。
本土決戦では、複葉の練習機を特攻用に改造し投入することに決定。
それで我が家の近くに600メートルという短い滑走路しかない
赤とんぼ特攻隊専用、泥の飛行場が作られたわけです。

冗談話かと思っていたら、日本軍は本気で赤とんぼ特攻隊を作っていた。本土に上陸するアメリカ軍に特攻攻撃をやって勝つ気だったのです。

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