僕が生まれた場所の近くに尼子時代に作られた高瀬城と言う山城がある。
山城から北に向かって、長さ2キロのまっすぐな道が今も残っている。
その道の突き当りには戦国時代、高瀬城主だった米原氏、近江国米原(まいばら)出自の武将、の菩提寺がある。
寺の名を西念寺と言う。つまり2キロのまっすぐな道は城から菩提寺までの旧参道なのだ。
尼子の滅亡のとき、高瀬城は毛利軍に攻め落とされた。しかし菩提寺だけは今も残っており、僕はその寺の檀家(門徒)である。
高瀬城の城主米原氏は観世音菩薩を信仰し城に祀っていた。
その名残で僕が幼少の頃まで西念寺で高瀬観音祭りが行われていた。
高瀬城主米原氏ゆかりの人物として、長州藩士前原一誠がいる。
高瀬城が毛利勢に攻め落とされた時、城主米原氏の一族の中には毛利家に仕えた者がいる。毛利家は関ケ原で徳川家に敗れた後、萩に移封された。
米原氏も毛利家に従って萩に行き、その家系は幕末まで続いたのであった。
毛利家に仕えた米原氏は尼子家臣時代の姓を憚り、同じ発音の前原の姓に変えていた。
そうして明治維新を迎えた。長州藩士は徳川家を倒せば自分たちが一国一城の主になれると思って戦った。しかし徳川幕府を倒したのち毛利幕府にならなった。長州藩士は一国一城の主になるどころか、
明治新政府の布告で武士の身分と俸禄を失い、帯刀も許されなくなった。
怒った長州藩士たちは前原一誠をリーダーにして明治政府に対して叛乱を起こしたのであった。これが世に言う「萩の乱」である。
政府軍との戦いに敗れた前原一誠は小舟に乗って出雲国に向かい、出雲大社に近い宇龍港に上陸したものの捕縛され、萩に送られ斬首された。
なぜ前原一誠は長州から出雲国に逃れたのだろうか?
彼は自分の先祖が城主だった高瀬城を想ったのではないか。
どうせ死ぬなら、先祖が城主だった高瀬城で死のうと思ったのだ。
米原氏の菩提寺の周辺の地名を「前原(まいばら)」と呼ぶ。
草笛は前原地区で生まれた。この地名が前原一誠の姓と妙に符号するのである。
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